悪い夢を見た。
たぶん、夢だ。夢でなければならない。こんなことが現実にあってはならない。
俺は目の前の光景を否定する言葉をひたすらに並べ立てる。そんなもので現状は何も変わらないのだけれど。
「ねぇ、土方くん」
向こう側で男が笑う。嗤う。―――哄笑う?
深海を映したような瞳は、今は夕焼けの所為で微かに赤みを帯びている。それが気味悪くて仕様がない。頬を一つ、汗が伝う。ぞくり、と何かが過ぎる。冷や汗だ。
「俺さ、たぶんお前のこと好きだったよ」
今度はゆっくりと口角を上げて。けれど細められた目には慈しみ以外には何も覚えない。綺麗な瞳だ。綺麗な言葉だ。綺麗な人だ。綺麗な空だ。―――綺麗な夕焼けだ。
「だからばいばい」
手を振るでもなく、いつもの軽口でもなく、男は一つ手を伸ばし落ちていく。刹那、ぐしゃりと何かが潰れたような音がしたがまるで地面に縫い付けられたように俺の足は動かない。伸ばした腕は空を切る。果たして男は。
俺はからからに渇いた喉を潤すように呼吸をしたけれど、迫り上がる胃液にそれを阻まれる。ああ、胃酸臭さと熱に頭がやられそうだ。粘つく口内が気持ち悪い。不愉快極まりない。
遠くで蝉が鳴いている。今更になって悔いる俺を滑稽だと嘲笑う。ああ、夏が終わる。彼と過ごした日々が消えてしまう。彼が―――。
膝をつき、空を仰ぎ、彼の名を呼ぶ俺を鮮やかな橙が嗤う。終ぞ彼に聞かれることのなかった音は慟哭にも似ていて、もはやこれを夢だと言い聞かせられるだけのものは残ってはいなかった。

 
title;空蝉 
 
 

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