年齢操作


 初雪が降った。
 裸になった街路樹の細い枝先に積もった雪が、何かの拍子にボサリと落ちる。
 芥子色の洒落たコートを着た女が、肩に落ちた雪を何気なく払い落としてツカツカと歩き去ってゆく。
 そんな様子が、珈琲の香ばしい香りが満ちた、アンティーク調の喫茶店の窓から見られた。
 すっかり冷えてしまった指先を服の袖に引っ込める。店内は暖房のおかげでほんのり暖かかったが、寒い雪道を歩いてきたせいで、体の芯に染みついた寒さはなかなか溶けてはくれない。
「珈琲、冷めるぞ」
 はっきりとした口調で、鬼道が言った。自分の珈琲を静かにすすりながら。
 向かいの席に何食わぬ顔して座る鬼道を見てから、おれは珈琲にミルクをひとつ入れた。かき混ぜると、ふわっと珈琲の香りが強くなる。
 おれはマドラーを突っ込んだまま、口もつけずに珈琲から手を離した。
 頬杖をついて、もう一度窓の外に目をやる。一時は止んだ雪が、今にも降り出しそうな空模様だ。
「不動」
 鬼道が呼ぶ。おれは顔を向けない。鬼道の視線がチリチリ痛い。
 でも暫くして、それも、たっぷり10秒ほど経ってから、おれは少しだけ顔を傾けて鬼道を見やった。
 鬼道はぱっと見た感じ、何も変わらなかった。最後に見たのもこんな寒い日で、ひときわ寒かったその日に初雪が降ったのも覚えてる。
 今、鬼道の隣には、見覚えがありそうな黒いコートが畳んで置いてある。
 あの日もこんなコート着てたなコイツ。そんな事をぼんやり思った。
「何度も考えた」
 鬼道が口を開く。奴のかけてる薄いフレームの眼鏡だけ、おれの知らない物に変わっていた。
「お前と縒りを戻せたらな、なんて」
 鬼道が自嘲気味に小さく笑う。
 おれが知っている鬼道よりずっと、今の鬼道は女々しい気がした。
「今更だよな」
「あぁそうだな」
 おれはもう一度鬼道から目をそらす。カチャリ、と音がして、鬼道が自分の珈琲カップを口元に運ぶのが視界の端に見えた。
「今更すぎんだよ」
 おれは窓の外をぼんやりと眺めながら、もう一度ゆっくりと口を開いた。
「どっちが先に別れようっつった?」
「……おれの方だったな」
「お前にとって、それが最善だったんだろ」
「まぁ」
「だったらいいじゃねぇか。これが正しいんだろ」
 たくさんの人に踏まれて、雪は少しずつ溶けていく。誰かが落とした片方だけの手袋が、雪に半分埋まっているのが見えた。
「その通りだな」
 言いながら、鬼道が笑った気がした。
「あぁ、そうだな。おれから切ったんだよな。だから、そう、ただ思っただけだから」
 鬼道は、落ち着いた、穏やかな声で言った。
 ただ思っただけ。その言葉に、温かい安堵感と小さな痛みが胸をよぎる。
 それを誤魔化すように、おれは珈琲を一口、喉の奥に流し込んだ。猫舌なおれにとって、それはまだ少し熱かった。
「そうかよ」
 珈琲を残したまま席を立つ。テーブルの端に置いておいたマフラーを首に巻きつけていると、鬼道がこちらを見上げてきた。
 それに何か言うでもなく、鬼道のわきを過ぎようとした時、
「もう、行くのか」
 おれは足を止め、けれども、目は合わせなかった。
「言ったろ。人待たせてんだよ」
「そうか」
 相変わらず店内は、珈琲の香ばしい香りが充満している。曇ったガラス戸の向こうには、寒々しい灰色の空と、雪を被った裸の街路樹が並んでいた。
「会えて、良かったよ」
「………そう」
「お前、勝手にメールアドレス変えただろ」
「………、」
「じゃあ、元気でな」
 鬼道に言われて、おれは返事も出来ずに歩き始めた。
 ちらり、もう一度、通り過ぎた彼の後ろ姿を見る。
 静かに一人珈琲をすする彼の向かいには、飲みかけのコーヒーカップがひとつ、置かれていた。
 出入り口に置かれた、雪やら泥やらでぐちゃぐちゃになったマットを踏んで、チリリンという軽やかな鈴の音を頭上に聞きながら、おれは洒落たアンティーク調の喫茶店を出た。
 途端に鼻を掠める冷たい風。
 それから、また雪が降り始めるまで、おれはただあてもなくふらふらと、泥まみれの雪に足跡をつけながら歩いた。














リハビリ作品。初雪ってのは"今シーズンの"って意味です。
タイトルはラズバン様から。



2011/11/19 17:15
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