蒸し暑い海辺(ちぇ)

 まさかの船旅の果てに故障とは。薄物を纏った帰還者は唖然とする。薫の同伴である以上、着物から逃れられない。平織と混ぜて隙間を作る織り方のため、夏物自体の通気性はいい。下に着る長襦袢も同じような造りだった。半衿も同様である。それでも暑いから、汗は掻く。日傘を差しても同じだ。「それって、もしかして着物の日焼けを避けるため?」と帰還者が尋ねれば「それもある」と薫が返す。それでも、自身の肌が焼けることを避けるためでもあるようだ。半分分けられた日傘の中で、帰還者はそう思う。それ以上に、出先で依頼人が平謝りして誠心誠意謝罪してきた方が、精神的ダメージはデカかったが。「申し訳ありません」と何度も繰り返し「空調がまだ直らないようで」と同じ説明を続ける。真に事故としかいいようがない。チラッと帰還者は薫を見る。眼鏡は曇っていた。真一文字に引き締められた口元しか見えない。タラっと夏の暑さで垂れる汗が、顔の頬を伝った。顎を伝い、地面に落ちる。太陽を背に受けた逆光の中で、薫は笑った。
「いえ。そのようなものは、中々対処しづらいですもんね。そこまでの気遣いをされましたら、仕事に支障はないと思いますし、大丈夫ですよ。どうか、そこまでお気になさらず」
 そう早口で捲くし立てたものの、ダメなものはダメなようだ。書道家としての仕事が終わり、帰りの便が出るまでの時間。桜屋敷薫はグッタリと横たわっていた。
 扇風機と金属の盥に入れられた氷水だけが、辛うじて涼しさを保つ。
「あづい」
 とはいえ、エアコンと比べたら弱い。弱小だ。襟元を大きく開けても、暑さはまだ逃げない。膝を枕にされる帰還者は、団扇を扇いだ。薫に扇ぐと見せかけて、自分だ。(あとで着直してもらえばいいや)の精神だからか、来たときよりも襟元が緩んでいる。帯はまだ、形を崩していない。
「まぁ、炎天下にいるよりは、ね? 一番涼しいところを割り当てられたみたいだし」
「あぁ。海の、さざ波が気持ち涼しくさせる」
「潮風も吹くし。あぁ、カーラは大丈夫なんだっけ?」
「チタン製だから腐食に強い。だからといって、そう進んで海には入らんが」
「入らされたら?」
「そいつを殺す」
(わぁ。すごいブチギレ)
 心当たりがあるのか、一気に薫の顔が険しくなる。頬や米神に青筋を浮かせた。その熱くなる頭を冷やすように、帰還者は団扇を扇ぐ。流れた生温い風に「フンッ」と薫は鼻を鳴らした。
「カーラ」
 一言名前を呼んだだけで、最先端のAIは一気に答えをいう。
『二十七.五度です。この状況だと氷で涼を取るのが早いかと』
「そうか」
 と頷くものの、実行に移さない。ボーッと膝枕で暑さを凌ぐ薫を見て、帰還者は金属の盥を見る。もう氷は小さくなっていた。その、かつては氷水だった液体に手を浸す。(微かに冷たい)最初のような冷たさは感じないが、室内よりはマシだ。冷水に浸した手を、薫に持っていく。ピトッと、その白い頬に運んだ。
「冷たい」
「水風呂を用意してもらえたら、良かったのにね」
「その必要はない。あと数時間で直るとの話だ」
「各部屋の空調を直してるんだっけ?」
「今夜泊まる部屋を早急に、らしい。ったく、全体が落ちているとは」
「なにもないといいね」
 そう嫌な予感も含めて帰還者がいえば、薫の視線が動いた。自分の頬を包む、帰還者の手を見る。その温度を見て、近くの手で包んだ。
「生温くなってきたな」
「体温だからね」
 当たり前のように返し、手を引こうとする。冷水に戻そうとするが、薫が離そうとしない。団扇を扇ぐ手も止めているのに、特に文句もいってこない。(あぁ、そういえば)ここは船の便が一日に一回しか出ないし、秘島だ。人口が少ない分、機械を職にする者も少ない。現存の部品を取り寄せるにしても、大変だろう。最悪全てを買い替える必要もある。
 ボーッと、帰還者も蒸し暑い部屋で過ごす。場当たり的に氷水を置かれても、取り替えられないと意味がない。(これが、あと数時間)
 薫には悪いが、一旦離れて水を貰えないか聞こう。それも氷が入った、キンキンに冷えたものを。酸っぱいものもあるといい。脱水症状にはレモンも有効だ。思考が取っ散らかる。薫は未だに離そうとしない。
 ズッと、襖が右へ動いた。


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