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永遠はここにあるべきだから





煙草を吸いに石畳を上がる。寺のような建物ばかりが立ち並ぶここは、東京ということを忘れてしまいそうになる。喫煙所のようなものはないから人気のないところへ行けと、家入が顎でさし示したところが、主な建物から少しだけ離れた石畳の階段の上にある、展望台のようなところだった。見舞いの数が増えるにつれて勝手知ったる場所になっていた。ここからは、殆どの建物や街が見渡せた。緑に覆われかけたそこと、空がきれいな境界を作る。
早々に箱から煙草を取り出して石畳を上がると、いつも誰もいないそこには、先客がいた。
一瞬足を止めるが、どうせ気配で分かっているだろうと気を取り直し上り続ける。
階段を上りきり少し離れると砂利道から土の地面になり崖のようにでっぱりがある。そこには誰が作ったのかは分からない小さな柵が取り付けられていた。
男は柵に手をつけながら、ぼんやりと高専を見下ろしている。空を見ているのか分からなかった。
俺は何も言わず、少し離れて煙草を付けてふかそうとすれば、おもむろにその男がこちらを向いた。既に男は白の目隠しをしていて、本当に見えているのか分からないままこちらを見ていた。


「こんなとこまで来てたわけ」
「家入に教えてもらったんだよ」


ふう、と離れた場所から吐き出した煙は、男にかかることはない。微かに、ち、と舌打ちが聞こえたような気がした。
今思えば、なんであんなことを聞いたのかは分からない。自分の感情が分からなかった。でも、もう、すでに結末は見えていたかのように思う。


「アンタはさ、あいつのことどう思ってんだよ」


煙が、喉を焦がして鈍くさせる。言わずにはいられなかった。男はこちらを振りかえって、柵に背中を寄りかからせる。背が高すぎて、本来ならば腰より上にくるはずの手すりは、男の椅子になっていた。
腕組みをして、こちらを見定める男の眼は、変わらずに白の包帯が巻き付けられていて表情が読めない。


「コイビトのお前が聞くの?なあに、嫉妬?」


先程の、射殺しそうな雰囲気は鳴りを潜め、ふざけたことを抜かして、こちらを煽る。
そんなんじゃねえ、と否定を挟むことはしなかった。ただ、無言で、煙草を吸って男を見つめた。男は、けらりと上げた口角を元に戻す。風が吹きすさぶ。
男は暫く黙って、微動だにしない。こちらを見つめて、真一文字にひかれた唇だけが感情を測る術だ。
俺は、男をそのままに、煙草を指で挟んで、息を吐く。ポケットに突っ込んだもう一方の手が、ぐしゃりと、入ったままだったレシートか何かの紙を潰した。


「おまえさあ、これからもずっとそのままでいるつもりかよ。アンタのあの態度は、」
「オマエには関係ないだろ」


気づいているのかいないのか、男の態度は読めない。俺の言葉を遮った男は腕を組んで包帯越しにこちらを見つめていた。
只の同期に対する態度じゃない、と言いかけた俺の言葉は、まるで花を飲み込むように喉奥に無理やり引っ掛かってぽとりと落ちた。そのまま、溶かされてしまえばいい。
男の言葉、女の態度、いくら、いくらこのような仕事で、同期も数が少なくて、学生の頃から、全てをともに過ごしてきた人間同士、俺には計り知れない関係があるんだろう。それは納得がいく。しかし、そんな言葉で済まないほどだったのだ、あれは。
ただ、素直に、酷だと思った。
俺は、あいつを好きになって口説き落としたからこそ、彼女が本当に全てを捧げるほどに重い感情を、この目の前の男に抱えていたことを知っていた。感情をゼロにしきれていないことも知っていた。それでいいからと、引きずり込んだのは俺だ。
相手がただ、からかってるだけのクソ野郎だったらいい。でも、あんな感情を、目の前の男の、それは恋慕だとは言えないかもしれない、愛と言えるようなものでもないかもしれない、でも、確実にそこにある重さを、彼女は喉元に突きつけられる。
可哀想だと同情すら感じた。執着と言えるようなものではないか。死を許さないなど。酷い殺し文句だ。

このまま、知らぬふりをして、彼女を愛し続けることはどこまでだってできる。彼女もまた、俺のことを愛してくれているのは知っていた。それでも、あんな、呪いを、ことあるごとに突きつけられるのならば、果たして彼女は、もう、手遅れなのでは、と、まるで他人事のように思ったのだ。
すべてが、目の前の男が悪い。
男は、腕を組んでこちらを見つめて首を傾げた。


「そろそろ、潮時なんじゃない?」
「は、」
「オマエに、あいつは手に負えないよ」
「それこそ、おまえに言われる筋合いねえよ」


煙草の灰が落ちて、黒い染みを作った。自分のことを棚にあげて、何を言っているのだ、と思った。


「僕でさえ、手に負えねえんだもん。普通の男では無理でしょ」
「てめえ」


俺のその言葉は、自分をこけにされたことではなく、相手が分かって言っていることが分かったからだ。
それでも、男は飄々と柵から体を離して切り上げようとする。


「あ、これ、渡しておいて。よくこんな不味いもん、おまえも吸えるね」


あいつも、という言葉が聞こえたような気がした。ぽん、と放り投げられたそれは、また、封を切られたあいつが吸っていた煙草の箱だった。毎回、一本使いかけの、煙草。
それが、どれだけ、

男はさっさと俺の横を通り過ぎて、気づけば消えていなくなっていた。
俺は、まだ戻る気になれなくて、そのまま柵に寄りかかって、2本目の煙草に火をつける。
何が幸せになるのか、どれを選べば、幸せになってくれるのか。なんて烏滸がましい選択だと思いながら、手元のカードは少ない。
サングラス越しに、焼けるような夕日を見つめた。








思っていたよりも唐突に終わった。これが裁判と言えるか、と言えるほど一方的な決定を俺たちは老人たちに見下ろされながら聞いていた。実質、俺の役目はほとんどないようなものだった。簡単な聴取を受けたが、結論は既に相手の方で出ていたようで、その決定を一方的に聞いて、五条が異を唱えるような流れだった。
五条たちも癖があるが、悪人ではない。しかし彼らはただ、保身しか考えていないような人間たちで、用語が分からなくとも、俺自身も、彼女自身も軽んじられ蔑まれていることはあからさまであった。後で五条に聞くと、それでも、俺がいただけましだったらしい。どこの上層部も変わらないのだと、反吐が出るようだった。
イレギュラーであったのは、途中で病み上がりの名前が乱入したことだった。五条も驚いて一瞬虚をつかれていたし、老人たちもまた、動揺が広がっていた。名前は俺の方はちらりとだけみて、その後は五条を見ていた。その目は、良いとは言えず、五条は何も彼女に情報を与えていないようだった。
暴言を吐かれる名前はものともせずに、無表情で老人たちを見上げる。真っ黒な、五条たちと同じような服を着ていた。初めて見る姿だった。首元まであるピーコートのようなものをきて、俺の前に立つ名前は、この世界の人間なのだと、まざまざと感じさせた。
簡単に、彼女は老人たちを脅し、その場を去る。話が終わった俺たちもまた、彼女に続いて外に出ると、早々に五条は彼女に文句を言った。


「なんで、お前が来るわけ」
「それはこっちの台詞なんですけど?なんで私に情報が下りてこないの」
「誰が言った」
「どうでもいいでしょそんなこと。私の、決議でしょ」
「お前が最後言いたかっただけだろ」


名前は、五条の指摘が図星だったようだった。
匿っていた上層部は、既に五条の家の圧力で潰されていた。そのうえでなお、彼女はまた、しらしめたのだ。まだ匿っていた人間がいたならば、これからも闇に葬ろうとするならば、容赦はしないと。
彼女が不自然に腕を上げて、同時に老人たちが引き攣った顔をしていた。完全なる脅迫だった。


「五条」
「何」
「私、松田と帰るから。あんたは先に帰って」
「なんだよ、俺一人で帰んのかよ」
「寂しんぼか」
「うるっせ」


男は、興味がないように、さっさと消えた。
飄々とした男は、時々口調が雑になる。いつものふざけた口調とどちらがマシだろうとくだらないことを考えた。


「松田」
「なんだよ、」
「ちょっと煙草でも吸いに行かない」


名前からは初めての言葉だなとうっすらと思った。煙草を吸うことすら、俺はおまえから教えてもらえなかったのに、と女々しいことを思った。
足の向くままに、彼女に連れてこられたのは、何度も訪れていた石畳上の柵に囲まれた展望台のような場所だった。


「知ってたの?」
「家入に教えてもらった。煙草吸うのに」
「知らない間に、いつの間に仲良くなってるの」
「おまえが起きるのおせーからだよ」


からかうように言った彼女に、俺がこともなく答える。名前は、何も言わずに少しだけ申し訳なさそうに笑った。
煙草を誘ったくせに、彼女は煙草を吸うことはなく、俺もまた気分じゃないと言って断った。
空が高く、見下ろせばうっすらと霧がかったように学校が見えた。かすんだそれは、本当にあるのか存在が心許ない。
柵に寄りかかって、彼女は口を開いた。


「陣平、ごめんね」
「何を謝んだよ。名前が謝ることなんて何一つないだろ」


本心だった。彼女が言っているのが、俺を危険な目に合わせたことだったならば。愛する女にそんなことを言わせる俺は何なのだろう。守られるほかはない。夏油が言った言葉がこんなときに、過ぎる。俺は確かに、彼女を守る術を持たない。
彼女の呼吸が痛いほど聞こえてくるような、つきりとした空気だった。嫌なくらいに澄んだ空気が、俺たちに立ち込めていた。皮肉なくらいに青い空だった。


「わかってんでしょ」
「名前、」


それはずるい、と思った。卑怯だと思った。何が分かってるというのだ、俺はお前のことが好きだから、愛しているから、お前の思考回路くらい、分かってしまう。それを分かって、甘えて言うお前は、なんて酷い女なんだろう。


「ねえ、」
「俺は言わねえぞ」
「終わりにしよう」


彼女は、爽やかすぎる声で言った。綺麗な息すぎた。
煙草を吸っていればいいと思った。手持ち無沙汰な両手が、ポケットの中で彷徨う。


「一応、下らねえ言い訳は聞いてやる」
「下らないって、」
「下らねえだろ。どうせ、危険に遭わせたとかそういうのだろ」


横を見れば、彼女は、酷く傷ついていた。お前が、傷つくのはずるいだろ、とまた心の中で浮かんで沁みる。アルコール消毒液が沁みるみたいに、血管にじわりと滲んでいく。
それでも、まるで我慢するように、いじらしく表情を真っ白にさせた彼女に、俺は何も言えなかった。


「下らなくないよ、」
「下らねえ」
「私が、怖いの。前だって!」


売り言葉に買い言葉で吐き捨てた俺の言葉に、彼女の声もあがる。出かけた言葉の急ブレーキで、言うはずもなかった彼女の本音が現れたような気がした。


「前?」


彼女はもう、意を決したようだった。俺に嫌われる覚悟を決めたみたいだった。今更、嫌いになれたら、こんなことにはなっていないのに。


「……観覧車で死にかけた時、思ったの。私はあなたが死ぬのに耐えられない」
「っ、」


心臓が止まったかのようだった。なんて殺し文句だろう。今、俺は愛の告白を受けているのかと、思った。彼女は真剣な瞳で俺を射る。自分の今の言葉が、どれだけ価値があるのか分かっているのだろうか。


「だから、ここで終わりにしよう。」
「……逃げるのか」
「今回だって、いつ死んでたっておかしくなかった」


彼女が来る前に、殺されていたっておかしくなかった。名前の瞳はそう言っていた。


「それでも、今生きてる」
「でも、苦しいの。私のせいで、もう、誰かが死ぬのは嫌なの」


彼女の家族のことがフラッシュバックする。俺は、名前を目に焼き付けるように見つめた。もう、彼女は、本当は俺のことなど見ていない。何を言ったって、今、名前が耳を傾けることはないだろう。それはもう、最初から分かっていた。
そこに涙は溜まっていないのに、まるでいまにも叫びだしそうなくらいに、彼女の瞳はゆらゆらと波が揺れている。衝動を必死で抑えつけるみたいに、気を抜けば、俺を引き留めてしまうから、必死で体を止めているみたいに。
いっそのこと、だらしない女であればよかった。何も考えず、俺に縋りついてほしかった。高潔な女だから、自分が苦しんでもなお、俺を突き放す。
そんな女だから、好きになった。


「名前だって、同じだろ」
「同じじゃないよ。私たちは、死なないよ」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。死ぬときは死ぬ」
「そう。でも、あなたたちの死に方とは違う」


大きく、彼女の瞳が揺れた。
ああ、そこまで、線を引くのか、と思った。今の言葉で、また、一番傷ついているのはこいつだ。自傷行為を目の前で、続けている。かき抱いたところで、彼女はまた、俺を傷つけようとして、自分を傷つける。
自分の世界と、俺の世界は違う。そう言っているのだ。まざまざと、一番彼女が嫌がって、コンプレックスに感じていたところを、自ら肯定した。


「世界が違う、か」
「そう、だから」
「だから?それでもいいって言ったのは俺だ」
「私が、嫌なの、お願い」


苦し気に、俺を見つめる。血を流して立っているようだった。
彼女はまた、幸せから遠ざかる。自ら、離れる。誤算だったな、と他人事のように考えた。愛していると伝わるほど、愛すほど、人は臆病になる。最早呪いだ。
そしてまた、彼女が言う一面を、俺は完全に否定することができない。警察官である限り、彼女の隣にいる限り、松田陣平という俺自身である限り。


「なあ、」
「なに、」
「俺のこと好きじゃなくなった?五条の熱でもぶりかえしたか」
「な、!」


いっそのこと、そっちの方がよかった。一番怒りが湧いてきて、一番腑に落ちる。
だって、彼女がまだ、幸せを諦めていないから。まだ、幸せになってくれるはずだから。たとえ、俺の隣じゃなくても。

彼女は目を見開いて、突如俺の腕をつかむ。その手は強くて、かっと見開いた彼女の瞳は、俺を見つめて赤くなった。


「そんなわけない!なんで、そんなこと言うの」


本当に傷ついているようだった。ああ、それだけで、俺は幸せだなと思った。そして、それでも、なんて俺は惨めで、結局あなたを幸せにできないのだと悲しくなった。
なんて殺し文句、なんて睦言。俺の勝利であり、惨敗だった。彼女が俺に感情を持ったせいで、俺を手離す未来があったなんて。
俺を失いたくなくて、いずれ失うならいっそのこと自ら手放そうとするのだ。なんて、滑稽で愚かだ。でも、今の彼女には、俺のそばにいることが苦しいのだろう。
俺だって、恐怖だ。それでも、それよりも俺はそばにいたかった。彼女は、結局無理だったんだろう。自分の人生に巻き込むつもりは、最初からなかったんだろう。
俺は、ゆっくりと瞬きをして、女を見つめて笑った。彼女は、なんで俺が微かに笑ったのか分からないようだった。


「ひでえ女」


穏やかに響いた。柄にもなく愕然としているようだった。それでいて、どこか安心しているように見えた。また、心の中で同じ言葉を吐いた。
俺には、どこまででも与えることができる。優しくかける言葉も、突きつける言葉も、温かな縋るような麻薬も、冷たい鋭いナイフも。
こんなに、俺は女々しいのかと、自身を嘲笑った。


「なあ、名前。もう戻れないよ」


彼女は、俺の言葉の真意を見つめて何も言わなかった。


「お前が、元に戻そうとしているんだったら、戻れないぞ。進んだものは、戻らない」


彼女はだんだんと、俺が言わんとしていることに理解が追いついてきたようだった。
これくらい、いいだろう、と俺は目を眇める。


「名前、俺は今も愛してるよ」


愈々、彼女は傷ついたような表情をした。青ざめていた。
皮肉なほど、綺麗な青空だった。あーくそ、神様。


「陣平、」
「じゃあな」


彼女が、震える声で俺の名を呼んだ。打ち消すように、俺は別れの言葉を吐いた。呆れるくらいに軽く響いた。まるで明日からは元通りみたいに。
俺はそのまま踵を返して、石畳を降りていく。
彼女が追いかけてくる気配はなかった。キスしてやらなかっただけ、良かったと思え。
最低なことを思いながら、俺は振り返らない。


「くそ」


啜った鼻を乱暴に擦った。


20220123
title by エナメル