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少なくともここはまだ最果てではない


あれからも、何事もなく、私は生きていた。何不自由なく、ただ男の別宅で、木蓮に見守られ監視されながら、時に勉強を教え、炊事洗濯をし、眠る。日が過ぎていく。状況は何も変化していないが、それでもなぜか、この亡霊のように、生きているか死んでいるかもわからない、存在が空気のような私は、数年ぶりに、息が吸えるような気がしていた。弟や、あの子にも悪いが、それでも、嫁いだ後、出戻った後、少しずつ、少しずつ、自分自身を恢復をしているような気すらしてしまった。ただ、生きるためだけに、生きる。ただそれだけが、どれだけ自身を癒したか。一つ一つ丁寧に自分の身の回りのことをすることが、何かを整理するように織られていった。

彼が、知っているかは分からないが、知っていてもおかしくはないだろうなと思う。お互いの間で、その話が出たことはなかったが。
あの家に嫁いだ後、罵詈雑言に暴力、凌辱は日常茶飯事の家だった。それが悪いことだとは分かっていても、嫁いだ後の私には選択肢は残されておらず、それをはねのけられるほど、私は強くなく、世間を知らなかった。いくら、男のように剣を覚え、書物を読み、体が丈夫だったとしても、女の行きつく先は、嫁ぐことしかないと、思っていたのはどこの女とも変わらなかった。
初夜を散らした時点で、私の道はこの家に縛られることしかなかった。逃げたところで、家に帰ることもできず、貧民として流れさすらうか、妓女として生きるほかはない。どこにいっても、この家との違いが分からなかった。

そう、思っている間に、子どもができてしまった。
子どもというものは不思議だ。あの男の、憎い男でも、生まれれば、自分の子としていとおしさが溢れる。子を守るためだけに、生きた。そして、悲しいことに、腹に子がいる間だけは、強い暴力が減ったのだ。子に、私は守られていた。
数え年で、今は5歳くらいになっているだろうか。あの日、全てが燃えた日、私という人間も消えた。お互いに限界だったんだろう。子を守りながらも、私自身も限界だった。あの男の暴力はますます酷くなっていた。次の子どもができないことも原因だった。そりゃできないだろうと思う。疲労や極限状態の精神で月のものはとうの昔に不純で、求められる体も丁寧に扱われたことはなかった。あの日、いよいよ泥酔し、私を痛めつけていた男は、刀を持ち出したのだった。私は何か切れたような気がした。気づけば、私は腹を刺され、男は事切れ、火が上がっていた。自分の親ですら、男は手を上げていた。気づけばそこは火の海で、私はただ、隠していた子どもを、助けに来た付き人に渡した。どこか遠くへ逃げてくれと。もうこの家とは関係ない場所で、生きてくれと。
この時は知らなかった。後々、事業で失敗し賊とも通じていた男の家は、その賊にも報復され、全ての家に火がつけられていた。その時に、こんなことをしていたから、逃げ遅れ、男も姑も死んだ。私もそのまま、死ぬつもりだったが、なぜか、この場所で、この人間たちと死ぬことが嫌で仕方なかった。せめて、場所を変えて、一人で死にたかった。気づけば、実家で目を覚ましたのである。





あの時に比べたら、彼に拾われたときに比べたら、あの家にいた時に比べたら、比べようもないほど、私は今は幸福だった。でも、このままではいられない。そんなこと、分かってもいた。
弟が生きていても、生きていなくても。子が、生きているか分からなかったとしても。今、私はこうして生きているのだから。



彼は、気づけば、昼頃も、数少ない休みだろうという日にも、時々別宅に訪れるようになっていた。彼の家だから、当然ではあるが、恐らく本宅は別にあるのは分かり切っている。
ぼんやりと、少し縁側に出て、彼は外を見つめていた。冬明けの頃であった。気づけば何か月、彼といるのだろう。そんなことを、彼の後ろ姿を見て、ふと思った。冬の夜は、酷く寒いだろう。彼だって寒いくせに、近くに、炉の炭を入れた鉢を置き、簡易的に暖を取っている。厚く着込んだまま、彼は夜の月と星を見つめていた。あまりにも、綺麗で、私は後ろから、何も言えなかった。
彼が、来るときは、木蓮は早くに自身の離れに下がる。この部屋には、私と彼しかいなかった。
ふと、彼が、こちらを振り向いて、自身の隣をとんとんと叩いた。


「花、」
「、ちょっと待って」


綺麗な切れ長の瞳がこちらを見た。彼の視界に私が映っているのも、いつまでだろう。当たり前のように、彼は呼び名を呼ぶ。少し低い声で、静かに、彼のそばにいることを許される。
出会った時から、時が過ぎてしまった。それが心地いいとすら思ってしまうほどに。潮時だ。ずっと。
私は、服を着こみ、盆に猪口と酒を出して彼の隣に座った。呆れたように、少しだけ笑った彼がいた。つんと冷めた風が、首元を通り抜けていく。
彼は、あまりにも自然に、座った私を引寄せる。彼の体温が分けられて、少しだけ温かくなった。私の頭は、彼の思いの外しっかりした胸板に寄りかかっていた。慣れたようにしてしまう彼の気持ちは分からない。彼の体も、体温も、知っているくせに。それだけしか、知らないくせに。
私は何も言わず、されるがままに、彼に寄り添った。どうせ、長くはない関係だ。一時の関係だ。ただの娼婦のような、女だから。娼婦には身に余る幸福を密かに溢れさせて。


「少しくらい、付き合ってよ」
「まあな」


私は、何も気づかないふりをして、彼に笑って猪口を握らせる。彼も呆れたように笑った。抱かれた腰はそのまま、彼は何かを見つめて、酒を呑む。
私は静かに、彼の隣で、空をみていた。冬の綺麗な、何もない空だった。彼が見つめている景色を、見られることができないことを少しだけ惜しく思った。
たわいもない話をした。彼とは、殆ど、長く話をしたことはない。話すことは、下らない話ばかりだ。それよりも、体温を分け合った時間の方が長いかもしれない。皮肉なことだった。あれだけ、嫌悪していた行為が、いつの間にか彼とは一種の会話みたいになっている。ただ、戯れでしかない。この家にいれば、何もかも忘れて、この世界だけで生きていける。世界を作ってくれているのは、他でもない彼だ。


「雪だな、」
「ええ、」


はらはらと雪が舞ってきていた。二人して、話を止めて、空を見た。綺麗な満月の下、彼の庭に雪が落ちては消える。儚い雪であった。この雪は、恐らく積もることはないだろう。


「寒いはずだな」
「そうね」


彼の手に少しだけ力が籠ったかのように感じた。まるで溶け合うようにそこにいた。そろそろ、潮時だ。


「春が来ますね」


既に、雪は降り積もらなくなっていた。季節外れの雪は、春の訪れを予感させた。庭に生えている、葉を落としていた梅も、蕾が膨らんできていた。


「春は、どうしているかしら」


彼は、少しだけこちらを見ていた。私は意地になって、彼を見つめることをしなかった。
春までだ。春まで。春が来たら、この場から消えよう。消えれなくとも、どうにかして、関係は変えねばならない。
このままでは、ただ私はこの人に囲われた妾であるから。それが、ただの愛妾であったならいいのだ。しかし、彼は私に情などなく、唯一人想う相手がいる。
彼は、私の言葉を、私の意図通りに受け取ったようだった。


「花、」


彼が私を呼んだ。
私はやっと、そちらに顔を向けたと思った途端、彼に顎を取られそのまま口づけられる。
深く、全てを奪おうとするような口づけに、私はいつも何も考えられなくなる。
接吻だけが何度も、繰り返される。溶けてしまいそうだった。彼が何を思ってしているのかは、いつも分からない。
どれくらい経ったかわからなくなって、ようやっと息を吸った。気づけば猪口は手から取られ、床に置かれていた。


「そろそろ冷えるだろう」


息が上がっている私とは対照的に、彼は涼しい顔だ。
そのまま、私を抱き上げ、寝室へと向かう。何も言えず、馬鹿と掠れた想いで毒づきながら彼の胸元を叩いても、彼は平然としていた。
そのまま、とさりと落とされて覆いかぶさった。また深く口付けを落とされて、全てが溶ける。彼に飲み込まれて私は溶けて消えた。いつから、彼はこんなに優しい口付けをするようになったのか。私の勘違いでいてと願った。寧ろ消えてしまえばよかった。










後宮を訪れた後、静けさを取り戻したかのように、彼女の口から弟の名前を聞くことはなくなった。木蓮から話を聞いても、ただ穏やかに生活をしているだけで、私の前だけではなく、木蓮の前でも、弟の名前を口に出すことはなくなったらしい。ただ、何かを思い詰めたかのように、外の塀に囲まれた狭い庭と、空を、ぼんやりと縁側から眺めている。彼女は今、何を思っているのだろうか。
声をかければ、その表情は無くしたように、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめる。その瞳を、見ていられなくて、目を逸らすようになったのは、何故だろうか。
彼女が、何を思っているのか、知ることは、難しかった。ただ、彼女は外に出ることもできず、別宅に閉じ込められたまま、ただ、生活をしている。何の目標も、使命もなく、ただ。木蓮に勉強を教え、部屋を片付け、時に買い物をし、本を読み、生きるための営みをする。

あの夜から、彼女が文献を読めると知ってから、外に出しても問題がない範囲のものを、戯れに渡すようになっていた。内職のようなそれは、それでも、彼女の気は紛れたようで、彼女らしい闊達な、それでいてどこか儚げな流麗な文字で、母語に直されていく。その精度は、訓練された官吏とひけをとらない、それどころか一介の官吏以上の秀逸さで出来上がってくる。
それに合わせた参考文献も渡していたり、家の書棚から探しているところもあるが、それはそれとして彼女の才能と、彼女自身が好きなのだろう。気づけば、十分に事務仕事を担う相手として手離せなくなっていた。
本当に、彼女が男であったなら、官吏も夢ではなかっただろう。


そんなことを思いながら、私は、彼女と木蓮の様子を見ていた。洗濯をして、木蓮と並んで寝具の白い布を竹竿にかけている様は、令嬢とは思えないほどに、快活で、柔らかな姿である。段々と、最初に出会った頃よりも、健康的な生活をしているからか、綺麗に笑うようになっていた。
夜だけの訪れが、気づけば朝まで延び、時々、家でできる仕事は別宅に持ち込んで、こうやって過ごすことすらあった。
もはや、ないことにはできない、この感情を、私は名前を付けられないでいる。何も知らないまま、このまま、過ぎればいいとすら、思っている。


「花、」
「、ちょっと待って」


冬の夜更けは早い。
日がな一日、休暇という名の仕事をしていたら、あっという間に一日は経った。3人で卓を囲むことも、珍しくなくなってしまった。
この家では、ただ穏やかな時が過ぎる。全てを忘れて、何もかも。
私は言葉少なに、隣をとんとんと叩く。彼女は、すぐにわかったのか、少しだけ呆れたように溜息をついて、暫くしてその場に来た。縁側の私の隣に座った彼女は、盆に酒を持ってきていた。

彼女は笑って、私にお猪口を握らせる。少しくらいなら、と私はされるがままになっていた。
夜空は美しく、丸い月が星を照らし、煌々と白い光が庭に降り注いでいる。
静かな夜であった。私が来ているときは、早々に木蓮は離れに下がる。この部屋には、私と彼女しかいなかった。


「綺麗ね、」
「、ああ」


ぼんやりと空を見上げながら、彼女は酒を飲んでいた。その瞳には、きらきらと星が映り、美しかった。だから、彼女が言った言葉に、一瞬だけ後れを取ってしまったのだ。


「春は、どうしているかしら」


酷く綺麗な女の横顔を、私は見つめていた。こういうときだけ、彼女は大人びた顔をする。遠いところを見て、私を置いていく。
幸せだ、という顔をして、幸せなど、自分には贅沢だというような顔をして罪悪感で狂いそうな顔をする。それを与えているのは私なのに。幸せなど、感じていないくせに。
優しくて、柔らかくて、強くて、切ない瞳が嫌いだ。まるで、見透かすような瞳が嫌いだ。それでいて、同じくらい。同じくらい。
私は言葉を潰す。


彼女が、わざわざ、未来に言及した意味を、私は取り違えることなく感じ取っていた。そろそろ、潮時だろうと彼女が思っていることはなんとなくわかっていた。いつまで、この生活に、彼女を縛り付けられるかも、限界を感じつつあった。
本来は、気高く自立した女だ。いっそのこと、自分の妾になるくらい、寄生する強かさをもった女であればよかった。そんな女であったな
ら、ここまで執着することもなかった。
私は、目を伏せて、全てをうやむやにする。

口づけをしてしまえば、彼女はいつものように必死な表情で段々と蕩け自分に縋る。
この顔が、この表情が、自分のものだけであればとすら思った。この執着を、いつまでないことにできるだろう。彼女がそばからいなくなることに、自身は耐えられるのだろうか。

彼女の体温と一緒になりながら、ちりちりと焦げる脳内を何度も隅に追いやった。
いつしか、彼女の傍でなら、酷く穏やかに眠れる自分を、気づかないふりをして、隣で眠る彼女の頬を撫ぜ、目を閉じた。



20230212
title by エナメル