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ここは深淵


彼がやってくる生活が、元に戻った。前と違うのは、彼は早朝に私を置いていなくなることが減ったくらいか。時には、私を抱くわけでもなく、ただ夜更けに私の寝台に入り込み、寝ているだけのこともあった。
言葉にすればあまりにも異常であるが、男と私の間に流れる空気は、いたって自然で、気づけば時間を過ごしている。私は思考回路が溶けていく。


ある夜の事だった。情事を終え、彼は一息ついた跡、そのまま休まずにごそごそし始めた。私は特有の怠さと眠気に襲われながら、うつらうつらと彼の腕に無遠慮に頭を預けていた。灯りを手繰り寄せ、目を閉じていても瞼越しにぼんやりと明るさが映る。彼は軽く肩に羽織りながら、布団に入ったまま何かの書物を開いているらしい。うつらうつらとした後、私は少し興味を持って、目を擦りながら肩を出した。


「寝ないのか」
「貴方も、仕事があるなら無理して来なくてもいいのに」


私が、働いていない頭で考えもなく言った言葉に、彼がどんな表情をしていたのかは知らない。
彼は恐らく、私が思っている以上に忙しく期待され、失敗が許されない立場にいる人間なはずだ。なんといっても皇帝付きである。そんな人間が、私みたいな人間に気紛れで関わっていることさえ、異常なのだ。
小さな灯りに照らされ、彼が見ていた書類を視界に入れると、それは夏沙国の言葉であった。


「……夏沙の天文についてなんて、珍しいわね」


夏沙国は砂漠に覆われていて、金椛国からも、砂漠を通り抜けないと夏沙国にはたどり着けない。それは大層大変な旅と聞く。
砂漠は目印がないから、慣れた旅人は夜の星を見て、方角を知るらしい。彼が見ていたのは、夏沙国付近の天文学についてだった。冬の星座と夏の星座によって目印にする星と位置関係が違うらしい。
私が言うと、彼は驚いたように目を開いた。いつも無表情が基本であるから、彼の驚いた表情は珍しい。


「夏沙の言葉が読めるのか」
「ええ。『冬は南南西に大熊座が出現し、北に北極星が一点、一等星で光り輝く。東には夏と一転し、蠍座の赤が光り輝くであろう』」


彼はまた、目を開いて瞬きをした。私はそのような表情がおかしくて少し笑ってしまう。


「どうしたの。そんなに貴方が驚くなんて珍しい」
「官吏でも夏沙国の言葉が読める人間はごく一部だ。しかも、辞書を使わずに空で言えるなど」
「貴方だって辞書使ってないじゃない。私、これでも語学は得意だったの」
「得意の範囲を超えているだろう」


彼が、珍しく素直に私を褒めるような言葉を発すものだから、またおかしくて掠れた声で笑ってしまう。
言語に関して、私は才があったらしい。しかし、小さい頃の話だ。女がこのような能力を持っていたところで潰しはきかない。余程、嫁としての挨拶の仕方だとか、もてなしの仕方だとか、化粧を学んだ方が実践的であった。
私は夏沙の言葉が珍しくて、戯れに文字を追う。そんな私の横顔を彼はじっと見つめていた。


「……男であったなら今頃出世頭であっただろうな」
「そうね、父には、よくそう言われたわ」


私は正直、私の能力がどこまで通用し、どこまで重宝されるものかは知らない。誰とも比べたことがないからだ。弟は登用試験をせっせと勉強していたが、私は試験を受けたこともないのに先生として教えたこともある。男であったなら、違う人生であっただろうとは思う。しかし、それが良いことかどうかといわれると、そうとも限らないことも知っている。
彼は、何を思ったのか、書物から手を離して、私を布団に引きずり込む。彼の胸板が目の前に来る。上目遣いで見上げれば、彼が感情の掴めない瞳でこちらを見つめていた。


「小さい頃、そなたは何になりたかった」
「貴方が過去の話なんて、珍しいわね」


今日は珍しいことが続く。私がころころと笑うと、彼は私から目を逸らして、手持無沙汰の左手で私の髪の毛を弄ぶ。
髪も大分伸びた。


「小さい頃ねえ。私は、市井の子どもたちに教える先生になりたかった」
「先生か」
「ええ。もう過去の話だけれど」


昔の戯言だ。市井の先生は、階層的に私のような人間がなるようなものでもなかった。もっと庶民に近い大人が、字を教えたり、計算を教える。そんな生活に憧れることもあった。
私は布団の温かさと、髪の毛を撫でられるせいで、またうつらうつらと眠気がやってくる。


「あなたは」
「……私か」


この人に聞くようなことでもなかったかもしれない、と言葉を発した後に思い至る。この人といると、私は考えなしになってしまう。なんて馬鹿な人間なんだろう。
彼がいつ宦官になったかは知らないが、ある程度子どもか少年の時だろう。彼のことだから、神童と呼ばれていてもおかしくないだろう。家柄も恐らくある彼は、何不自由なく、無限の未来が広がっていただろう。それが、一気に道を絶たれる気持ちは言葉を絶する。
彼は、私の髪を触る手をやめないまま、考えているようであった。その表情は無防備であった。私のせいで、機嫌を損ねてはいないらしい。


「許せる人と、静かに暮らしたいな」


微かに聞こえた言葉が、私の耳に入って吸い込まれる。最後に見た、彼の表情は酷く穏やかで、遠くを眺めていた。私は瞼を閉じて、ぬくもりを感じる。
彼には、恐らくたった一人、決めた人が心の中にいる。時折、私に重ねていることも知っている。そのうしろめたさを、時に私にぶつけていることも知っている。
まるで、ぬるま湯の悪夢のようだと思う。彼の優しさは、甘い毒のようだ。猛毒だ。
致死量に達してしまえば、私は簡単に死ぬ。
互いに愛されていないと知りながら、私たちは知らないふりをする。どうせ期限付きの関係だ。
私たちは、あまりにも愚かで、歪だ。


20200420
title by 依存