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冷たさを舐める


目を覚ますと、視界に入ったのは、高い黒檀の天井であった。ここは地獄かと思った。地獄でしかなかった。男は当然の如く消えていた。
酷い夢かと思ったが、身じろぎした時の自分の身体中の鈍痛で夢ではないことを知る。全ての恐怖を塗り替えたかのように、更なる恐怖で支配される。叫んでも叫んでも口づけで飲み込められる。暴く手は容赦がないのに、男の貪り尽くすようなその唇は悲痛に満ち溢れていて、私まで悲しくなってしまうほどだった。泣きながら見た男の瞳は何を考えていたのか。私への怒りとともに、己への怒り。そして、底知れない虚無。海の底の正体は虚無であった。
虚しい。悔しい。がつんと手を振りかざして寝台を叩き付けた。蹲って泣くしか出来ない。あのまま舌を噛みきって死んでやればよかった。殺してやればよかった。それが出来なかった自分の情けなさ、不甲斐なさに涙が流れる。何もかも酷く踏みにじられたというのに、私の服は綺麗なものに変えられていた。その事実も辛かった。何故、彼は私を、あんな目で見たの。悲しさで溢れた口付けをしないで。そう思わせているのは自分自身のくせに。あんな事をするくらいなら、何故最後は優しくしたの。彼は果てる時、悲しそうに私の頬を撫でた。途切れ途切れの場面が切り替わる。本当に狡い。そのまま捨てればよかったのに。痛々しく肩に噛み付かれた歯型がひりつく。私は布団に顔を埋めて嗚咽を殺した。




人間、どんなことがあってもお腹は空く。気づいたら泣きながら寝落ちてしまったらしい。再び目を覚ました時には、差し込む光はすでに橙色に近くなっていた。身体を引きずりながら、寝間着のまま上着を羽織って外に出て水場へ行く。立って気づいたが、私は右足を捻っていたらしい。そういえば、昨日の捕り物の時に、久々に動いたからか床の上で足を捻ったのだった。どこか遠い昔のように思える。きちんと清潔な包帯が巻かれて、そこからは薬草の匂いがした。弟を思い出して辛くなった。
水場には誰もいなかったが、誰かが用意をしている最中であることが窺えた。恐らく木蓮であろう。私は適当に器をとって、水桶から水を掬い、喉を潤した。


「花様、」


後ろから声が聞こえて振り返れば、木蓮が葉物を抱えて立っていた。私の姿を見た途端、慌てて葉物を台において私に駆け寄り、跪く。


「どうしたの」
「昨日は、誠にありがとうございました。貴女様がいなければ、私は今頃この場にはいないでしょう」


命の恩人だと、深々と最高礼をする木蓮の顔をあげさせる。あどけない顔がおずおずと覗かせた。私がしたことは当然の事で、別に恩義を感じるほどでもない。私こそ、日々木蓮に支えられて生かされている。その上には、あの男がいるのかもしれないが、私にとってはいつもそばにいる木蓮の方が、恩義を感じていた。
話を聞けば、木蓮はあの後離れに下がっていたようで、あの男から、私が夕方まで起きてこなければ様子を見に行けと言われていたらしい。それまではそっとしておくようにと、早朝に命を下し、早々に出立したそうだ。また、よくわからない配慮が私の心臓を割る。足を引きずっているのも、初めて見たようで、木蓮は慌てて私に安静しているようにと言った。私の部屋には昨日からあの男しか出入りをしていないらしく、この手当も、あの男がしたのだろうと言った。目をそむけたくなる。
私はまた、囚われる。





あの後から、嘘のように男は私の前に現れるようになった。宦官を指す灰と白の服を着ているときもあれば、普通の恰好をして髪をおろしているときもあった。来るときはいつも、真夜中であった。
そのまま気づいたら襲われる。互いに何も生まない、愚かな行為でしかなかった。いつもはじめは荒いが、最後には私が絆されている。男は長い指で、すぐに私を暴き、涼しい表情で、私ばかり振り回される。その瞳はいつも、虚無と悲痛と怒りがあった。程なくして、私に対しての怒りよりも、己への怒りの方が強いと知った。ばらばらと翻弄しながら、私に数多の鬱血痕と噛み跡を残していく。いつも最後は肩を噛んでいた。あの夜以外は、いくら荒かろうと、暴力は一つもなかった。それが、また割れそうに心臓が痛んだ。何度か身体を重ねれば、あっという間に過去は塗り替えられて、恐怖からの震えはなくなった。あんなにも、辛く、思い出すだけで死にたかった過去の行為を、形は違えどしているというのが信じられなかった。
殆ど、彼は私に言葉を残さず去っていく。起きれば彼は既にいない。朝は一人だった。それもまた、虚しい。何を私に求め、私もまた、彼に求めているのか。分からない。



足が元通りになるまでは、木蓮と一緒にいようと決めていた。私を外に出すことはまだ許されておらず、私は暇な一日を、宅にある書物を読んだり、木蓮に簡単な勉強を教えて過ごした。まるで嘘のような日々だった。



やっと、足が元通りになって、筋肉も大分戻ってきた頃、いよいよと思って家を出たことがあった。それは、長期の行方不明のため死亡と判断された弟を、確かめるためであった。また、一文無しに逆戻りであるが、当初逃げ惑っていた時に比べれば、それこそ時が経ちすぎているし、私一人くらい、どうとでもなるだろうと思った。
しかし、そうならなかった。どこまでも自分の運の悪さを呪い、悪運の強さに諦観すら覚えた。
あの家を出て、5日程経った夜に、私はなぜか賊に追われていた。ただ普通に歩いていただけなのに、私はなぜか盗人の疑いをかけられ、追われる羽目になった。本当の犯人が私を指さして大声を出したのである。特に手を出すのがよくない輩であったのだろう。逃げども逃げども諦めることはなく、寧ろ人数が増えていった。
どんどん知らぬ道に逃げていくが周りの人は減っていく。それに反比例するように追いかける人間は増えていく。足も限界であった。日は陰り、人ひとりいなくなったところで、誰も気にしない世界になった。どこかの家の壁を背に、囲まれてもう無理だと諦めるところであった。


「何をしているんだ」


どこかで聞いたことのある声が響く。低いか高いか分からないような声をしていた。彼は頭から布を被り、顔を隠していたが、着ている服は青の漢服で、品位の良さが際立つ。


「ああ?どこの役人さんだ」


殺気だった数人の大男に囲まれた私のことは、見えていないのだろう。腕と肩を怒らしながら、私ではなく役人の方へ向く。たった一人のように見えたあの男に全てを倒せるわけがない。幾ら私が力及ばなかったとしても、ひょろりとした男一人と屈強な大男数人とは比べ物にならない。


「ちょ、っと待って、」


私が戸惑うように声を発したが、賊達は私の方を見ておらず、男一人の方へ向いていた。さっさと倒して私をとっちめる予定だろう。
今思えば、その隙に逃げればよかったのだ。いや、そんな暇はなかった。
気づいたら、私の周りの人間は倒れ伏して、立っているのはその漢服の男だけだった。壁に背中を預けている私と、佇んでいる男だけになる。あまりにも軽やかに彼らをのしてしまった。思わず腰が抜けてしまう。私は目を瞬いて、呆然と見つめていると、男が私の目の前まできて佇んだ。ひらりと夜風に攫われて隠した表情が垣間見える。また、無表情だった。


「お前は、馬鹿か」
「ばっ」


吐き捨てて、彼は私に二の句も告げずにひょいと腰が抜けた私を持ち上げて俵抱きにする。馬車にさっさと雑に投げ込んだ。


「えっ、ちょっと」
「本当にそなたは何を考えているのだ。逃げたら逃げたで一人で生きて勝手に死ねばいい。何故私の前に現れる」


男は呆れも含めて怒っていた。馬車は程なく走り出す。覆っていた布を外して、私を射竦める。美人の怒った表情は怖いというのは本当だ。


「……なら捨て置けばよかったのでは」


わざわざ敵を作る必要性はなかったはずだ。しかも、この言い方だと、取り囲まれているのは私だと分かったうえで、乗り込んできた様子である。
私はすぐに余計なことを口走ってしまったと悟る。一気に馬車の中の空気が零下に落ちる。男は、一瞬動きが止まった後、突然私の足を持ち上げ捻った。


「いった、い!」
「また捻っているのか。このまま両足とも折って打ち捨て烏の餌にしてやろうか」


今思い出しても、あの男は本気だったと思う。


また雑に俵抱きされて連れて帰られたのは、馴染み過ぎたあの宅であった。木蓮が出迎えて、私の汚らしい姿を見たら、驚き、生きていてよかったと泣かれた。初めてそこで罪悪感を抱く。私はもといた部屋へと連れ込まれ、木蓮に小言を言われながら、また足を捻ったことに叱られながら、手際よく湿布を貼り包帯を巻かれる。そのまま体を拭いてくださいと濯いだ布を渡されて、いつも来ていた清潔な服も用意されていた。
どんなことをしても、私はあの男に囚われる運命なのだろうか。また死なず、生きている自分に呆れすら覚える。5日外にいたが、別に目ぼしい情報は手に入らなかった。家は損壊し、血が乾いた跡がまだあった。長く居れないまま私はその場を後にする。既に埋葬はされた後だろう。

ぼんやりと考えていると、合図もなく部屋の戸が勝手にあき、男が入っていた。支度を整えている私の前に座る。
私は流石に、平伏して、頭を垂れる。どんな形であれ、私はこの男の迷惑をかけ、一度ならず二度も命を救われたのである。一生で返しきれないほどの恩と言ってもいい。それもまた虚しい。


「頭をあげろ」


私はゆっくりと、その声に倣って頭を挙げる。まっすぐと見据えた彼の眼は、相変わらず何が映っているのか分からない。彼は、私を眺めて暫く沈黙が続く。片手で回しているのは清酒を入れた猪口であった。
彼は酷く頭が回ることも分かっている。そして、私に対しての言動は目に余るものがあるが、木蓮の口ぶりを聞いていると、恐らく立ち回りも上手いのだろう。そして最後に今日の体術だ。生半可なものではなかった。女の中ではほどほどに知識がある方だと思うが、男はただ物ではないことがわかる。学問も武道も持ち合わせている男が、その若さで皇帝付きというのは本当のことらしい。末恐ろしいことだ、と私は他人事のように考える。普通に出世していれば、彼はどうなったであろうと思わずにはいられない。
彼は、溜息をついて、私に声をかけた。


「賭けをしないか」
「突然何を仰っているのです」
「どうせ、そなたは弟をこの目で見るまで、死んでいたとしても生きていたとしても、追いかけるつもりであろう」


呆れた口調で言った。


「そなたがどれだけ我儘に振る舞おうとも、私にも気紛れに拾ってしまった負い目がある。協力してやろうと言っているのだ」
「裏があるとしか思えませんね」
「勿論何もなしとは虫が良すぎるであろう。どちらが先に弟を見つけるのが先か。そなたが先に見つければ、これまでのことは全て忘れて勝手に生きていけばよい。私への恩なども感じなくてもよい」
「貴方が先に見つけた時には」
「私が先に見つけた時には、呼ばれた時には何があっても私の元へ馳せ参じ、私の駒となって尽くせ」
「……それは些か天秤が傾いているのでは」
「そうだろうか。そもそもあのままでは絶える命を拾い生かしたのは私だ。どうせ一度死んだようなものだろう。私が私のために使って何が悪い。常に縛り付けておくわけではないのだ。優しいものだろう」


首を傾げて面白そうに笑って言った。
言っていることは無慈悲極まりない。命を物としかみていない残酷さ。


「そんな賭け、乗れるわけがないでしょう」
「本当に?そなたは5日間探しても見つからない。幾ら時が経ったところで、そなたは星家の生きていてはいけない人間だ。家もなく金もない何もないそなたが、身を隠しながら探すにも限度はあろう。しかし、私は堂々と表へ出るだけではなく、の人間だ。国内外の情報を集めることも容易い。私がそなたの立場なら、使えるものは何でも使うが」
「……」
「生死関係なく、結果が出るまでは、最低限の衣食住と安全は保障してやる。こんないい話はないと思うが」
「いい話には裏があるものでしょう」
「そうだな。しかし、そなたには選択肢が他にないだろう」


ゆるゆると口角をあげて笑う男は、私が頷く他ないことを知りながら、このような話を持ち掛けてきているのだ。そもそもの賭け自体も簡単に勝てるわけがない。それでも、弟のことを考えれば、自分がどんなことになろうとも厭わない。例え、一生この男の手足となろうとも。
私は、酷く不本意に眉間に皺を寄せながらも、再び頭を垂れるほかはなかった。
それを見て、より深く笑みを浮かべた男の顔を、私は知らない。



20200420
title by 依存