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世界の底


気づけば、横たわっていた。ここは地獄かと、目を瞬かせれば、高い天井の黒檀の色が目に入る。私はゆっくりと目を瞬かせて、息を吐いた。


「目が、覚めたのか」


ぼんやりと動く気配のなかった私の右耳から、澄んだ声が聞こえる。男にしては高く、少女にしては低い、しかし雪のような肺が目覚めるようなそんな声をしていた。ぱさりと、衣擦れの音が聞こえて、また違うところから、小さな足音がぱたぱたと動くのが聞こえる。それは遠ざかり、聞こえなくなった。ここには私以外に二人の人間がいるのだろう。人間であるかどうかは分からない。私はそう考えながらも、ただぼんやりと高い天井を見つめていた。そこに、影になるように、違うものが視界に入り、私の眼を遮る。


「無視をするとはいい度胸だな」


声は依然と冷めていた。私の眼は仕方なく、その人間を捉えた。長い髪を緩く束ねて、灰色の重ねを着ていた。肌は透き通り、頬は白かった。切れ長の目に、筋の通った鼻と形のよい唇が真一文字にひかれている。整った顔をしていた。それは男の顔であった。しかし、どこか人間味のない顔をしていた。その瞳は墨のようで、からめとられそうでいて、何も浮かんでいなかった。


「……私は、何故、ここに」


久方ぶりに聞こえた自身の声は、掠れて酷い有様であった。ぱたぱたと先程聞こえた音が、今度はゆっくりと何かを運んでやってくる。


「記憶がないか。それとも、私のことを聞いているのか」


男は、感情の見えない声で私を覗き込んだまま、そういった。何かを抱えてきたもう一人の人間は、近くまで来ると、私の顔を覗き込んだ男が視線をそちらに向けて、待機するように言う。


「起き上がれるか。喉が乾燥しているのだろう」


何か飲み物を持ってきたのだろう。男は、淡々と言葉を紡ぐ。私に興味がないのか、私の反応が鈍いことすら気にも留めていないようだった。
私はこの数刻の間に、ある程度自身の記憶を思い出していた。
私は、囮となって逃げだしたのだ。自分の家から。
法により、私を含む全ての親戚が処分されることが分かったとき、私の頭には、弟のことしかなかった。父は死に、母も死んだ。それ以外の下人も知らない。庇えば、全て同罪である。私は、弟を逃がし、自身が囮となって逃げた。弟には未来があった。転々と町の中、下水の中、様々なところを彷徨った。面倒な髪は自分で切った。その後の記憶はとぎれとぎれだ。恐らく、どこかで打ち捨てられたように生き倒れていたのだろう。水も食料も何もなかった。最後の記憶は、激しい雨に打たれて感覚が亡くなった地面だけだ。
恐らく、今、私が生きているということは、物好きな誰かが、汚らしく打ち捨てられた私を拾ったのだろう。天井の高さからも、高貴な家の人間だということが分かった。そして、これは本宅ではなく、別宅なのだろう。人間の気配が薄かった。
そこまで頭を働かしたところで、思考を無理やり打ち消す。そんなこと、考えたところでどうにもならない。また、生き残ってしまった。本能で、生きようと逃げていたくせに、自分を笑ってしまう。弟は、助かっただろうか。私は一度目を閉じて、身体を起き上がらせる。


「突然起きたら、体に障りますよ」


違う声が私を労わる。身体はずきずきと痛み、突然の動作に肺が驚きせき込んでしまった。もう一人の男は、何もせずに、私を見つめていた。白の着物を着せられていた。大丈夫、と労わる声の方に目を向けた。もう一人は少年で、声も幼い。


「飲んでください。白湯をお持ちいたしました」


少年は私に差し出して、それに男も反応しない。見れば見るほど、綺麗な男だと思った。歳は同じくらいか。私は、ほぼ肌着のようなそのままで、少年が差し出した湯呑を受け取った。
私はそれをじっと見つめて、礼を言う前に、そのまま飲み干した。
その様子を、男もまた、感情の分からない目で見ていた。


「……あなた方が助けてくれたのですか。礼をいいます」


幾分かましになったが、いまだ掠れた声は感情を乗せず、淡泊に空間に響き渡った。


「随分と、あっさりしているものだな。そなた、名は」


彼は、私の様子を眺めたまま座っていた。少年は世話人なのか、私の湯呑を受け取り、ぺこりと簡単な会釈をして、また部屋を出ていく。私は、そのまま、男をまっすぐ見つめた。波のような瞳をしている男だ。酷く凪いでつまらなそうな瞳だが、その奥には何を考えているのか、底なしの海のような、掴みきれない影を感じた。助けた割には、感情のない瞳だと、不思議だった。
男は、私が答えられないと分かっているような口ぶりで、聞いた。あくまで、逃げ回っていた人間だ。さして、想像通りとでもいうように、彼は息を吐いた。


「答えられないか」
「……何故、私を助けたのですか」
「質問を質問で返すとは、」


はっと口を歪めた彼は、少しだけ、目じりをおろす。私はすっと見つめる。何故、この男は私など助けたのだろう。身なりや言葉遣いからして、良家なことはますますわかる。それならば、より一層私のことなど話せるわけがない。星家だとばれたら、誰もが私の生存はまずいことが分かってしまう。馬鹿な男ではないだろう。それどころか、小賢しい瞳をしている。今のところ、顔が割れていないことだけが救いだった。私が殺されるのは構わない、ただ私の生存が、もし、万が一うまく逃げ切ったかもしれない弟に被害が及ぶことが何よりの恐怖であった。様々な面から、私は自身の名を、命の恩人だといえども、易々と言うわけにはいかない。最悪の結果になるくらいなら、死んだ方がましだ。しかし、目の前の男は、何を考えているか知らないが、私のことを助けたのだろう。喜んでいるような風を一切見せず、淡々と見つめ返すその目にどんな感情が宿っているのか、私に推しはかる術はない。


「そなたを助けたのは、ただの気紛れだ。家の近くで雨に打ち付けられた布を拾っただけだ」


ゆるりと、猪口を回して口に含む。光は、緩やかに端に灯されたあかりと、上から入ってくる月明りだけであった。夜の闇が照らされる。


「……そうですか」
「死を免れたというのに、浮かない顔だな。命を狙われていたのなら、先程も毒かとは疑わなかったのか」


淡々と言葉を紡ぐ彼の顔を、月明りで浮かび上がったその顔を見つめる。


「わざわざ死にかけの人間を助けたのは貴方でしょう。私は塵芥のように酷い恰好をしていたはずです。そのような私を綺麗にして、生き永らえさせたのですから、易々と殺すとは思えません。ですが、私も少々不思議です。貴方もまた、私が目を覚ましたところで淡々とされていますね。」


わざわざ、労をかけてまでした癖に、彼の魂胆が見えない。何が望みかと、遠回しに伝える。
彼は、目をゆっくりと瞬いて、私を見つめると、突然声を出して、笑った。


「私は、ただの気紛れだ。どうせ、行く当てもないのだろう。好きにしろ」


男の突然の、笑い声に私は目を瞬かせる。笑い声が似合わない男だと思った。少しだけ目を伏せた男の睫毛が長く、綺麗に頬に影を作る。彼は、呆然とする私をそのままに立ち上がる。しゃなりと衣擦れの音がする。私は男の遠くなった顔を見上げる。
部屋の外に向かおうとする男が、ふと止まって私を振り返った。


「名はどうでもいいが、呼び名がないのは面倒だな。何かないのか」


男の眼は、見えなかった。私は、息を吸う。


「……ならば、花と」
「花か、」


何故、私はもっとましな呼び名にしなかったのだろうと、一瞬で後悔をしてしまった。男は、一度自分の口で転がしたあと、何かを納得したように瞬きをした。


「私は、なんと」
「ならば、玄でよい」
「玄」


戯れであった。月の光のせいで影になる、そんな男にぴったりの呼び名だと思った。
嘘も真もないような、くだらない言葉しか交わさず、男は私を残して去った。

20200419
title by 東の僕とサーカス