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「おかえりなさい」
「ただいま」


にこやかな笑顔で迎え、にこやかな顔で私を見つめる男。マンションのドアを閉じた途端その顔は全て消え去る。外の廊下に付けられた防犯カメラが嘘の新婚夫婦を映しきるまでである。
溜息を着きながら、カジュアルなシャツのボタンを外しながら男は髪をかきあげる。私は笑顔を消してそのままリビングに向かった。

潜入捜査は順調に進んでいる。順調に滞りなく。高級マンションに移り住んだ新婚夫婦。IT起業家として彼で黒幕候補の人間共に取り入り、私は私でその共犯であるだろう奥様を吟味する。あまりにも絵に描いたような新婚夫婦を演じなければならなかった。防犯カメラは既に公安が検査し、ハッキングの痕跡を確認している。見つかり次第容疑者を確定し、その上で泳がせる。私たちの潜入はそれだけの証拠では終わらない。

仕事にいく夫を送り出し、家事をし、空いた時間はこのマンションの奥様方とお茶をする。そして夫が帰ってくるのを大人しく待つ。専業主婦とはこういうものか。
彼が着替える間、夕食の準備をして席に着く。


「今日は」
「ある程度信用は得られたようです。ターゲットは中村夫妻だと」
「裏を取れ。旦那の方も接触があった」


夕食の時間に互いの現状報告をし、私が報告をする。やっていることは昔と何も変わらない。私自身も一応潜入捜査官だということ以外は。
豚肉と白菜を取り皿にとりながら大根おろしとポン酢を足す。今日はしゃぶしゃふである。葱と白菜ときのこと水菜、牛ではなく豚であるところが味噌である。豚しゃぶでも十分美味しい。それぞれに良さがある。食材を切り出汁をとるだけでひとつの鍋で済むのは楽である。
正面に座っている男が、水菜を引き上げ自分の取り皿に入れている。
その日の報告をし終わり、肉を鍋に足す。


「またもぐることになるとはな」
「あんなことは懲り懲りですか」
「前に比べたら楽さ」


確かに安室透としてバイトする必要もないし、今回はホワイトの方だから関わる人数も多く、負担の種類は異なる。


「お前の方こそどうなんだ」
「あなたのバックについてた時ですか?私も今の方が楽ですよ。何よりマンションに缶詰なところがね」


前はありとあらゆることを1人でしていた。しかし今は私は「彼の妻」であることで、報告はしても調査などは他の人間がやる。私がやることは上司代理と報告書と部下の指示と家の掃除ではなく、ただ専業主婦とはなんぞや、ということをしていればいい。その上で共犯者へ取り入り、彼の報告をまとめて定期的に報告するだけ。普通の生活態度を一番に求められている。
私と同じ世代か少し上の主婦と当たり障りのない話をし、狭い狭い世界の中で均衡を保ちながら信用を得る。酷く蠱惑的で、酷く退廃的である。


「昔を恋しく思うことがあるなんて思いませんでしたよ」


豚肉をぶら下げながら呟く。
目の前の人間の直属の部下であった地獄の日々でさえ、恋しく思うほど、今の私は酷く退屈で、鬱屈していた。


「おまえは定期的にあっているだろう」
「くそむかつきますね。私があの人にどう思われているか分かってる癖に」
「同性に好かれるんじゃなかったのか」


そう言う人間の口角は上がっている。


「無駄な人間には労力を割かない主義です」


そもそも、目の前の人間が原因であるのに、当人はどこ吹く風でしゃぶしゃぶしている。

私が久々に会った公安の人間は、ほぼ顔見知りでありその人間は有難いことに快く迎えてくれた。一握りの人間は初対面に適当な距離で対面し、もう一部は、あからさまに私たち部外者を敵視する。甚だ面倒な組織だ。部外者であること、女であること、もう一人の指揮官であること、彼とともに潜入捜査すること。それぞれに様々な原因があるが、今の一番の原因は最後の問題である。


「あんな人間があんたの下にいるなんて、甘くなりましたね」
「上層部が無理やり組み込んだ。あいつは俺の前だと大人しいよ」


彼は何もかもわかったように、さして興味もないように箸を動かす。


「よく入れたわ」
「中途半端に技術はあるからな」
「あら珍しい。節穴になりましたか?」
「人の功績を盗む術だ」


上司の元で唯一の女であった私は抜け、今、チームで唯一の女が奴である。
若く、男ウケする容姿、気が強い瞳を濃いめの化粧で隠し、男の前では上手く隠し、目敏く人を観察し取り入る人間を選び利用する。全ての男が騙される訳では無いが、騙される男も少なからずいる。女から見れば分かりやすく姑息な女であった。
初めて会った時から嫌なオーラは漂っていた。見つめる瞳は常に降谷。昔の降谷の部下である私が気に入らないだけかと思っていたが、降谷に向ける瞳はそれだけではなかった。独占欲と執着心、蒐集癖。嫌な色の恋愛感情。
偽装結婚の相手である私がとにかく気に入らないらしい。ねちねちと突っかかってくるわ、妨害するわ、散々である。あちらからすれば、ぽっと出の私が消えれば、ここに収まるのは自分であったと言いたいのだろう。
めんどくさい。とても面倒くさい。目の前の男がそれを全てわかった上で、利用し今は我関せずという立ち位置を維持しているのも頭に来る。
彼女に与えられた立ち位置は男の妹という立場の連絡係であった。新人にしては過ぎた抜擢であるのに、女は分かっているのかいないのか、私ばかりを目の敵にする。甚だ面倒である。


「彼女と話しても息抜きにもならない」
「煽っている癖に」
「あちらが勝手にそう受け取るんです」


男は片方の眉を上げて肩を竦めた。
私は何も言ってないししていない。裏を返せば、彼女にとっては寧ろその行動が一番癪に触っているのだろう。私も分かっているが、それで彼女に譲るのもわざと嘘の感情を出すのも必要なことではない。











最悪だ。最悪すぎた。
冷静だと思っていた自分は、どうやら冷静ではなかったらしい。トイレの蓋に座った途端、急速に零点下に下がっていく脳内を、必死で受け流して、ぽたりぽたりとしたたる髪の毛の雫を呆然と見下ろす。
まだコーヒーじゃなくて良かった、と思うのは現実逃避だろうか。

男の妹役の、公安の女と定期的にランチという名目で情報交換をしていた。USBを渡すだけだが。にこやかに笑う様に見せておいて、その実針金のような言葉が突き刺さる。
並々に注がれていたグラスを、気づいたらばっさりと頭からかぶっていた。最後の最後、コーヒーが出る直前の時間。何故そうなったのか。そもそも女の方が煽ってきてた気がしている。別に中身のない糞のような会話だった。
あまりにも女の手が素早くて、避けきれなかった。被ったことよりも避けられなかったことの方が衝撃だった。昔はそんなことなかった、大分微温湯に浸ってしまった。こんなことを上司に知られたら、こっぴどく叱られてしまう。頭に浮かんだ上司は、現夫だった。もう直属の上司ではないのに。一生、私の頭に居座りつづけるのだと、思い知らされた瞬間だった。
目を瞬いた途端に、目の前の女がほくそ笑んだ。その瞬間にまざまざと憤怒が湧き上がる。にっこり笑って「失せろ」と言った私は、大人な対応をしたと思ってくれ。まじで。
そもそも幾ら互いにそりが合わないと分かっていたが言葉での攻防戦を繰り広げていた最中に、手を出したのはあちらの方だ。
水をかけてくるなんて。仮にも役職は上の人間に。歳も上の人間に。そもそも潜入捜査中に。
ちゃんちゃら笑ってしまう。
視界からいなくなったあとに、周りから注目されているのを気づかぬ振りをして、ゆったりと立ち上がりトイレへと向かう。
個室で座って息を吐いた途端、つらつらと頭は動き始める。

来るものは受けいれ、去るものは追わず。
人を尊重できるという長所は、お前のことも何も言わないからお前も土足で踏み込んでくるなという宣戦布告である。
それを土足で踏みにじられたら。
目には目を、歯に歯を。
やられたらやり返す。倍返しだ。

軽く顔を拭いて雫を落とす。前髪をかきあげてある程度乾くのを待つ。

泣き寝入りするような女だったなら、あいつの隣になんて立っていられないことを、あの女は知らないのだろう。









IT系列の仕事をして、帰宅をする。ラフな綿シャツの上のボタンをひとつ外して、柔らかい紺のジャケットを羽織る。
同機種の携帯のもう一方を取り出し、報告を確認する。一瞬でざっと目を通しまたさり気なくポケットに入れる。
予想外の展開になったな、と思いながらコンビニに寄って食べ物を買い込み鍵をあける。
カードキーのそこそこのセキュリティ。


「ただいま」


玄関先で声をかければ、遠くからおかえりなさいという声がくぐもって聞こえる。出迎えないのって珍しい。新婚家庭を演じると息巻いていたのは誰だったか。別に無くても全然俺はいいが。革靴を脱いでジャケットを脱ぐ。腕時計や眼鏡を自室に置いてリビングに入れば微かに漂うアルコールの匂い。


「なんだこれ」


テーブルには赤ワインのボトルが置かれ、ワイングラスには飲みかけのワイン。そこに部屋着で大きな丸いボックスを抱えた女がいた。


「あ、降谷さんおかえりなさい」


心做しか声に剣呑さがある。
片手にはスプーンを持っていた。
よくよく見ればそいつがソファの上で胡座をかいて抱えていたものは、一リットルのボックスアイスクリームだった。


「は?お前1人でそれを食べる気か?」
「うっせー私のお金です大人買いですうー」


そうやってスプーンを突き刺して直接にチョコレートアイスを食っている。
やべえやつだ。


「今日は大変だったそうだな」
「え、なんで降谷さんが知ってるんですか、は?」


俺にまで喧嘩腰でくるのはやめて頂きたい。基本的に喧嘩腰か、俺たちは。
俺の予想の斜め上を超えてくるな、と思いながらコンビニの袋を机の上に置き、飲みかけのワイングラスを勝手に煽る。


「細山が監視してるだろ」
「そうだったー、ああそうだったー。あの野郎私があの状態でスルーしたんだろどうせ笑ってたんだろあんのやろ」


いやいやそれがあいつの仕事だから、対象者と接点持ってはいけないから。
みょうじは舌打ちをしながら片手で空けたワイングラスに注ぐ。


「ほんと腹立つまじで腹立つ何より私が避けられなかったのが腹立つ」


ぶちぶち愚痴を垂れる女を放置して、キッチンに向かう。鍋を覗き込んで中身を確認する。


「今日はハヤシライスか」
「そういえば冷蔵庫にはサラダありますよ」


未だ愚痴を垂れてるあいつは、テレビを見ながらスプーンを口に運ぶ。自分の分を用意しながら、あいつ1日であの量食べきる気か、と考えて空恐ろしくなる。
冷蔵庫に冷やしてある缶ビールを取りだして机に置く。


「てか降谷さんも!知ってるならなんか労いでも下さいよ!」
「八つ当たりかよ」
「可愛い可愛い部下の失態ですよ私なんも悪くねえ」
「どうせまた煽ったんだろ」
「それで手を出していいって言うなら警察はいらねーんだよ」


今夜は本当にだいぶ口が悪い。
ストレス溜まってるなあと思いながら、手を合わせてスプーンを手に取る。
今日はおそらく散々な目にあいながらも、自分の職務を全うしている彼女に内心笑う。
相変わらず料理の腕は天下一品である。


「だいぶ荒れてるな」
「はーー自分自身に腹たってんですよ、ああ話したらまた腹たってきた」
「だから労いの意味もこめて買ってきただろ」
「は?」
「袋」


隠し味に大量に赤ワインとトマトが入ってることが分かる。これが豚肉じゃなければビーフシチューに近い。そういえばビーフストロガノフ作ったことがなかったな。
遠くでがさがさと袋を漁る音がする。


「え!!!ダッツ!!!!」
「まあいらないみたいだから冷凍庫入れておくよ」
「んなわけないじゃないですか!!!しかも最近出たバナナオショコラー!ありがとうございます!」
「は?今食べるのか?さすがに食べすぎだろ。腹壊すぞ。馬鹿だろ」
「悪口が酷い今食べますがなにか」
「絶対やめておいた方がいい。お前今日でどれだけアイス食べるんだ」
「怒りには甘いものと相場が決まってるんですよ」


顔をあげればすでに蓋を取って満足気な表情で手を掲げるあいつの姿が見えた。


「……こっわ」
「精々怖がってればいいんですよー」


ワイングラス片手にアイスを頬張る彼女に少し背筋が冷えた。
後日結局腹痛になった彼女に、大声で「ばーか」と叫んで、何も言えねえって顔でげっそりする女に呆れた。



20190504
title by Rachel