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あの憎き上司が、憎悪の念で執着している人物に、私は一度会ったことがある。それは、降谷もしらない、おそらく私と彼だけの、秘密ともいえないくだらない記憶だ。








私がまだ公安に配属されて日が浅かった頃、アメリカで潜入捜査をしたことがある。潜入捜査といっても、それは日本の公安が動いているというのが悟られないようにした、ただの聞き込み調査であったが。所謂ビユロウと同じことだ。もともと治安の悪い地域で動いていたのがいけなかった。何かの暴動に巻き込まれ、私は他のメンバーとはぐれた挙句、流れ弾にあたった。防弾チョッキの準備もないほど、私たちにとっては予想外の出来事だった。この時点で、この捜査は大失敗である。
酷いどしゃぶりの雨で、汚らしい路地で息を潜めていた。逃げようにもこの傷では遠くまで逃げられず、連絡を取ろうとも、あちら側も忙しいのか繋がらない。
左足をかすり、ついでに腹に一発。埋め込まれたままのそれは、まだ意識ははっきりしているから大丈夫だと思うものの、この雨の中いられるのは限られている。荒くなっていく息とともに、頭を働かせるも、このまま堂々と動いたら捕まるだろうし、ここにいても私が死ぬか誰かに犯されるか連れ去られるかのどれかだ。
持ち物は充電が切れかかった携帯と、ベレッタとS&W M19だけだ。寧ろこんなところでこれらを所持しているのが見つかれば、確実に死ぬ。
流れ出る血液量に、考えてる時間はないと悟る。

いちかばちか、逃げるしかない。


動いて見つかり、襲われたとしても、動かなくてもこのまま放置し続けたら死ぬんだから。
土砂降りの雨の中、黒い液体が体を伝って流れる。暗闇を探りながら歩き始めた。壁を伝い、足を引きずる。




どれだけ歩いただろう。多分、全然だ。荒くなる息、強くなる雨、もうすでに足は感覚がない。それは打ち付ける雨で下がった体温のせいか、流れすぎてしまった血のせいか。どちらにしてもとても良くない。壁に体を預け、ゆっくりと這っていく。まるで虫のようだと不格好で、もはや敵のことなど考えている余裕はない。こんな状態で会ったとして、出来ることは限られている。
突然、何かが内臓からせりあがる。思わず咳き込んだら体中が痛く、何かが口から飛び出した。見ないでもそれが何かわかる。体を辛うじて支えていた糸が切れた。ずるずると壁にもたれて座り込んだ。荒い息は止まらない。体の外側も内側も痛い。腹を押さえて蹲った。瞑った瞼に冷水を浴びる。開けていても閉じていてもさして変わらない程の黒だった。
ここで、私は、死ぬのか。早いな。意外と悔しさなどなかった。何も役に立たなかった。それは諦め。せめてマイナスにならないように今唯一の情報源である携帯を壊すか。どうせ雨に濡れてお陀仏だろうと、そのために手を動かすのも億劫だ。酸素を求めて半開きのままの口には金魚のように水も一緒に取り込む。身体が重い。痛い。寒い。いたい。やっぱり、ほんとはあきらめたくない。いたい。まだ、わたしは、いきたい。はやく。ねえ。だれか。

縋りついた生だった。閉じた瞳から何かが零れた。こんな状態になってさえ、無駄な体液は出るのだと、頭の片隅でどこか冷静だった。
雨の打ち付ける音が、奇妙に揺れた。それは風で揺れたわけではなく、人為的なものだった。犬か猫か、それとも人か。段々近づく音が聞こえる。人だ。闇に紛れるように、打ち捨てられた布切れのように蹲った。辛うじての温度を保った息は掠れた。荒い呼吸をするほどの体力さえ、もうなかった。敵であるのなら、気づかれないで。通り過ぎて。助けて欲しいという本音とは裏腹に、迷惑をかけて死ぬ訳にもいかなかった。
歩いていた足音が、雨の音に混ざりながら私に近づいてくる。通り過ぎる。そう思った矢先、その足は止まり、引き返した。私の方へ。それは確信を持って近づいてくる。薄く目を開く。暗闇に瞳孔を慣らしながら、気力を振り絞って見定める。もし、敵であるなら、一瞬の隙をついて銃で殺せるか。こんなことを考える自分に、全然諦めていないではないかと嘲笑った。
片方の手をゆっくりと胸に持っていく。弱い心臓の上に、硬さがあるのに安堵する。指に感覚はとっくにない。
私の前で、足は止まった。男か。幾分大柄に見えた。


「おい、生きてるか」


流暢な英語で話しかけられた。低音で、内容に似合わない無感動さを投げかけられる。覗き込もうとして近づく男。もう気力は無かった。敵であるような気配も無かった。多分、そんなことを言うとお前は甘いと怒られるんだろうと、上司の顔が浮かんだ。死ぬ間際にあいつの顔が浮かんだことに胸糞が悪い。


「声が出ないのか」


顔にかかった髪の毛を堅い手で払われる。肌に雨が打ち付ける。薄く開いた目が、微かに男の顔を捉えた。暗闇に見えたのは緑の瞳と、鋭い白さだけ。


「日本人か」


男は私の反応を求めていないかのように、てきぱきと見定めていく。なぜ日本人と断定したのか。チャイニーズと間違えられてもおかしくないのに。英語から日本語に変わるもそれもまた流暢であった。髪を払った手はすでに私の腕へと移動し、無理やりに伸ばされた私の足は投げ出す形で、露になった腹を見て息を吐いた。胸元にあった手もどけられ、簡単に上着の下に手を入れられる。ベレッタが外に出されるのが分かった。


「………だ、れ」
「喋らない方がいい」


血がどれだけ流れたのか知らないが、お互いにもう手遅れだと分かっていた。


「こんなものを持っていたということは、残党か」
「……ち、がう」


私の言葉を信じたかは知らない。彼は一瞬私を見据えて着ていた上着を脱いだ。
それを左足に巻いていく。感覚がない状態で強く巻かれたと感じるのだから、恐らく鬱血するほどの強さだろう。ぼんやりと見つめていると、男が言った。


「ならなぜここにいる」
「………」
「言えないか」


さして気にするでもなく、男は止血した足を置いた。浅い息をするたびに激痛が走る。脳が途切れ途切れに白くなった。
男は、私を一瞥したあと、立ち上がった。足の止血をしても、酷いのは腹の方だ。すでに流れた血は元に戻らず、今更止血しても焼け石に水だ。男の気まぐれか。それにしても、おそらく男は知識があるようだった。このまま放置してもどうせ助からず、足の傷がただの気休めだということも。それならなぜ、わざわざ止血したのか。ああ、肺が弱まった。酸素を求めて惨めに口を開ける。すると、突然体が軽くなったような気がした。魂でも抜けたのかと、脳天気な考えが浮かんだ。死んだことがないのだから分からない。いや、思考できるということはまだ死んでいないのか。


「死ぬなよ」


近くで声が聞こえる。それはその男の声だった。ふと、瞬きをするくらいのなけなしの気力で開いた。一瞬視界に移ったのは黒い胸板。抱きかかえられているようだった。


「……なんで」


殆ど息のようだった。ひゅうひゅうと音にならないまま喉が鳴る。


「放っておけない性分でね」
「………おひとよし」
「随分元気なんだな」


死にかけているのに、と笑った。ただの息なのによく理解できるものだと、感心した。男が何か言っている。途切れた聴覚は理解できないまま、それが最後の記憶だった。


20160629
title by Rachel