「近くにいたいなら、いればいい。傍にいたいのなら、いればいい」
私の隣にいる男の人が、静かに優しく言った。私は彼の顔を見つめた。
「君が、我慢する必要はないんだよ。言わないと、行動しないと伝わらないんだから」
とても、優しく目を細めて私を見るものだから、何も言えなかった。まるで、違う誰かが彼の心に住んでいるような、自分に言い聞かせているような、そんな寂しい目をしていたから。 明るくて軽薄に見えてしまう新庄さんでも、想う人がいるのだろうかと他人事のように思った。大人だと、思った。
「なんて、老婆心だけどね」
今までが無かったかのように塗り替える。ウインクをしてこちらに微笑んだ。 空気の波についていけなくてよく考えずに言葉が飛び出る。
「新庄さんは、好きな人いるんですか」 「……いるよ。とても大好きな人が」
内緒ね、と口に長い人差し指を当てて微笑む彼はとても綺麗だった。
飛行機の中で殺人事件が起こった。蘭ちゃんのお母さんが事件を解決していた。ちらりとコナンくんを探せば、いつものように何やら変な機械でこそこそしていたからコナンくんが推理しているのは変わらないようだ。私はただ、彼の隣で怖々としながら流れに身を任せるほかはなかった。樹里さんが呻き声をあげた時、新庄さんが咄嗟に私の耳を塞いだ。大丈夫だよとでも言うように、その手は温かく、私は座席に座り続ける。彼のそんなさり気ない気遣いに安心し大人のこの人に甘えていた。 新庄さんは多分、とても優しくて想像以上に紳士的だった。そして、場違いにも、そんな新庄さんに大切にされるのならとても幸せなのだろうと他人事のように思った。 一つ疑問に思ったのは、なつきさんが新庄さんについて話していた時に発覚した新庄さんは樹里さんの恋人だったということだ。話によるとあまり上手くいっていた訳ではなかったようだけれど、隣の彼はその話の時も平然としていて寧ろ他人事のようだった。もしかして彼が言っていた好きな人は、樹里さんではないのかな、と過ぎったけれども、大人の隠し方は上手いから分からない。
そして今、私は少年探偵団の皆や蘭ちゃんのお父さんたちに混じって席を移動した。隣に哀ちゃんが座ってくれてほっとしている。園子ちゃんや新庄さん、蘭ちゃんや新一くんはコックピットに篭っている。私は祈ることしか出来ない。
「あなたはいなくてよかったの」 「いてもやれることないしね」
少し苦笑いして哀ちゃんの方を見た。この状況に関しても冷静でいるように見える哀ちゃんに流石だと思う。私は内心どうしようもなかった。同い年の女の子が、操縦桿を握っていて、その親友が支えている。自分に当てはめてみればとても恐ろしいことだった。 現実味すら湧かなかった。 新庄さんがとてもてきぱきと指示を出していた。その上で、蘭ちゃんに代わるときも冗談のようなその人の素なのかもしれないけれども、さらりと混ぜてくるあたりがとても慣れているように感じた。女の子に優しい。
「新庄さんって、優しいよね」 「そうかしら」
とても興味なさげに言われて私は黙るしかなかった。 そんな私を見かねたのか、彼女は少し口角を上げて言った。
「あなた、大分短い間に絆されたのね」 「え、そんなんじゃないよ」
彼女のからかい口調に慌てて言った。
「誰にでも優しい男はやめておきなさい」
時々哀ちゃんは芯を突かれるような大人な女性のようなことを言うから心臓に悪い。
「……哀ちゃんって本当は何歳だっけ」 「秘密」
ぐらりぐらりと揺れながら、私は皆に埋まりながら着陸を経験した。恐ろしい程の揺れと、把握出来ない恐怖は一生忘れないと思う。多分私が知らないところで、蘭ちゃんたちの切迫感や必死さ、覚悟は計り知れないものがあったのだろう。 救急車で検査を受けている蘭ちゃんと再会したときには、思わず私が泣いてしまった。ありがとう、と感謝の言葉しか出なかった。蘭ちゃんだからこそ成しえたことであって、私だったら絶対に無理だったと思う。皆がいたからだよ、と優しい微笑みを湛えて言ってくれたけれども、そんなことはない。もっと蘭ちゃんは自分の凄さを自覚するべきだと思う。 その時に蘭ちゃんから、怪盗キッドが新庄さんに変装していたことを知った。途中で飛行機を降りた怪盗さんは、パトカーのサイレンの光を利用して滑走路の位置を示してくれたらしい。そのような機転よりも、ただただ新庄さんの中身が怪盗キッドだったことに驚いていた。といことは、私は本人に弱音を吐き、本人からアドバイスを受けたことになるのか。顔が真っ白から赤にグラデーションになった。相手を明らかにしていないから、怪盗さんがあれだけで自分だとピンとくることはないだろうけれども、胸がざわざわする。 そしてまた重大なことを思い出す。新庄さんが内緒だと言っていた、好きな人がいるという言葉。あれは、怪盗さんのことなのだろうか。新庄さんでわざわざ言う必要はないのだから。ということは、黒羽くんには好きな人がいる、ということ。 今更、何にショックを受けているのかと半分の心はざわめく。あおちゃんがいるんだからと、諦めた心は何処に行ったのか。諦めきれずに燻るその心はとても良くない。また同じ思考回路を繰り返すのは嫌だ。
そんなことを結局ぐるぐる考えながら、平気な振りをして、風に涼んでいた。 目まぐるしい一日のあと、やっと色々な手続きも終わりホテルに体を落ち着けた。用意された部屋は恐ろしく広くて、ベランダまであった。 皆もう寝ているのだろうか。体は疲れているはずなのに、余りにも非現実的なことを体験した脳は、全然休まる気配がない。頭を整理するつもりが、整理されているのだろうか。どこか夢心地のように、酷く浮ついている。 北海道だからか、夜は少し冷える。二の腕を少し摩った。
「風邪をひきますよ、お嬢さん」
突然の声に、私は思わずびくりとして声をあげそうになった。声はしーっと指を当てて、私を宥めすかす。
「キッド、」 「空ぶりですね、なまえ嬢」
気配なく降り立った彼は、白いマントで身を覆った怪盗さんだった。シルクハットを目深に被り、隙間から見える口は笑っている。
「な、んで、ここ」 「怪盗は神出鬼没なんですよ」
ただただ見つめてしまう。夢の延長上なのだろうか。あんなにも、あっさりと夢は消えてしまった。最後に逢った怪盗としての彼は、幻のように消えてしまったのだから。
「怪盗さん、は、もう会いに来ないかと思ってた」
言葉が空にぽとりと落ちる。霙のように重力がかかる。彼は不思議そうに器用に首を傾げた。
「私は一言も、そんな事は言ってませんよ」 「だって、!」
彼は私の言葉を遮るように近くなる。
「お前に心配されるほどじゃねーっつの」
いつの間にか、距離はなくなり温もりが肌に伝わる。
「俺は神出鬼没の怪盗キッドだぜ?心配するならまず自分の心配しろっての」
抱きしめられていた。ただただ真っ白な視界と、温かさ。優しすぎる柔らかい声。
「よく、頑張ったな。怖かったな」
彼は背中をぽんぽんと優しく撫でる。
「、うん」 「よく頑張った」
ひたすらに優しい声で私に囁いた。知らぬ間に自分が震えていたことを知った。
「うん、怖かった……!」 「そうだな」
彼は擦り寄って温かさを与える。さながらそれは母親のようだった。何も求めない、底抜けの慈悲。
「怖かった、!」
気づいたらまた泣いていた。蘭ちゃんの前で見せた涙とは違う。ただただ安堵と、誰にも言えなかった恐怖。私達を救ってくれた彼らに、無責任な泣き言など漏らせなかった。 気が済むまで泣けとでも言うように怪盗さんはただただ優しく抱きしめる。私は彼に甘やかされている。その優しさにまた、涙腺は緩んで元に戻らない。
「本当に、怖かった」 「そりゃそうだ」 「そ、だ、新庄さん、腕、」
そう、彼は左腕を強打していたはずだ。
「……ああ、ちゃんと手当はしたから大丈夫」 「そっか、良かった、」
ゆっくりと落ち着いていく私を、柔らかく受け止めてくれていた。 顔は多分悲惨なことになっていると思う。冷静になりつつある頭で、私は怪盗さんにとても恥ずかしいことをしてもらっていることに気づいて余計に顔があげられない。 それを知ってか知らずか、彼は自然と顔をあげさせる。近い距離に思わず目を逸らす。目元に、白い滑らかな手袋が滑る。 彼の細められた目は何を見ているのか。 真っ白な甘い優しさに、何も分からなくなってしまう。
「生きてて、良かった」
彼が囁くように呟いた。 吐息すらわかる近さだった。
「うん、」
何もかも優しすぎた夜だった。 ただこの優しさだけが現実であればと願った。 何も、何も聞けなかった。
20171030 title by 喘息
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