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駆けていったところは、屋上だった。屋上なんて初めて入った。四階の階段から立て看板が置かれて、立ち入り禁止を促されているのに、彼は躊躇うことなくすり抜けて駆け上がる。初めて見る屋上への扉。シンプルなすりガラスのドアを、埃の被った階段にうっすらと足跡をつけながら器用にドアをあけた。なんで、鍵のかかった扉を開けられるんだ。
外に出てみると、地面はざらざらしたコンクリートに申し訳程度についている柵。燦々と降り注ぐ太陽が容赦なく私達を焼く。


「あっちーな」


走ってきたのもあいまって、黒羽くんも私も汗だくだ。なんで、止まった途端に汗が吹き出すのだろう。
若干の日陰があっても、暑いものは暑い。黒羽くんががばりと座ってシャツをパタパタとさせる。私もとりあえず隣に座って足を投げ出した。


「何か飲み物飲みてえ」
「そうだね」


なぜここに来たのだろう。
まあ、いいか。
うだるような夏の暑さが思考回路を狂わせる。少し空いた彼との隙間に、緩やかに空気が透ける。


「ワン、ツー、スリー!」


突然カウントを始めると思ったら、前に突如出された黒羽くんの右手が握られ、ポン!と音がした。
一瞬のまばたきの合間に、彼の何もなかったはずの手にはしっかり握られたサイダーの缶があって。


「え!すごい!」


驚いてサイダーと黒羽くんの顔を見比べると、彼はにかりと笑った。


「ほら、」
「うわっ!」


缶が突然私の頬に当てられる。体を動かして離れても一瞬遅い。って、声もうちょっと女の子っぽくならないものか。


「え、冷たい!なんで!?」


自販機から出てきたばかりみたいに冷たくて、よく見れば露もついている。その仕組みを知りたくて彼の顔を見ても、黒羽くんはふふっと笑って長い指を唇に当てた。


「それは秘密」


微笑んだそれが酷く綺麗で、完璧で、見惚れた。
黒羽くんはかちゃりとプルタブを指にかけて開ける。


「ん」
「え、いいの」
「いいのいいの」


しゅわしゅわと炭酸の弾ける音に混じって冷めた煙が上がる。手渡されたそれをゆっくりと飲んだ。

甘い。

彼をこっそり盗み見ると、ぼんやりと暑そうな顔で空を仰いでいる。
もう一度飲んだ。
両手でこわごわと持った缶はこの夏のせいで、すでに痛みは消えて温く曖昧な境界を作る。


「俺にも頂戴」


ほい、と私の手から取り上げたサイダーを、躊躇うことなく口付ける。
前を向きながら飲む様子は、酷く自然で様になっていた。マスカラがきらきらと眩しい。
ごくごくと飲みながらこちらを向く。どうやら私が見ていたことに気づいていたらしい。


「ん?」


もしかして見惚れてた、なんてからかっていうものだから、私は馬鹿みたいに否定して素っ気ない態度をとってしまう。


「あ、」
「何?」
「、なんでもない」
「なんだよ」


からからと缶の軽い音がして、彼は地面に空き缶を置いた。


「ほんとになんでもないから」
「気になるだろ」


体をこちらに向ける彼の様子で、逃れられないとわかる。


「……いやいや気持ち悪いから」
「そんなの聞いてみないとわかんねーだろ」
「その時点で聞いたらどうなるかわかんないでしょ」


そう突っ込めば、ごめんとくしゃくしゃに笑った。


「で、ほら」


笑わねーから、と彼は言う。
どうやら、本気で逃がしてくれそうにない。
彼から目を逸らして、前方の地面を見た。緑のようなよくわからない色だ。


「………黒羽くんが私にしてくれたマジックは、今ので二回目だなーって」
「……へ?」
「だから言ったでしょ!気持ち悪いよって!」


黒羽くんの方を見れなくて、余計に凝らして空を見る。地面と柵と境界線ばかり、鮮明にゆらゆらと揺らめく。
心臓が嫌な汗をかく。そりゃそうだ、わざわざ回数を数えている人がどこにいる。ここにいるけど。そういう問題じゃなくて。
初めて会ったときの小さな花束と、今の冷たいソーダ。
私に対してしてくれたマジックは、その二回。


「……何か言ってくださいよ」
「……俺そんだけしかみょーじに見せてない?」
「見せてないよ!」


そこまで確実に言いきれる私も気持ち悪いと思う。事実だけれど。
彼の方を見れば、黒羽くんはうんうんと唸っていたが、何か納得したように手を叩いた。


「って、そんな数えてるほど印象的?」


にやりと、いつもの殊勝な態度を取り戻すからむすっとして答えた。


「だから嫌だって言ったのに」
「いやいや嬉しいぜ?覚えててくれるならやりがいもあるってもんだ」
「そりゃあ、」
「そりゃあ?」


勢いに任せて言ってしまいそうになった言葉を寸でで止めた。
たぶんこの朦朧とする夏のせいだ。思考回路が熱い。


「ここまで言ったんだから言ってみろよ」
「……好きだから」
「、なにが?」
「私、マジック何気に好きだから」
「あ、そっちね」


なぜか片言になっている黒羽くんを見るが、彼は彼なりにもう解決したのか暑そうにぱたぱたと前を見ていた。


「じゃあさ、」
「何?」
「俺が一番?」
「何が?」
「マジシャンとして」
「あー、うーん」


空を見た。黒羽くんがこちらを見ているのがわかる。カラフルな記憶が青いキャンパスに浮き上がる。
前までは、たぶん、即答で黒羽くんと答えることができていただろう。マジックが好きと言っても御贔屓を見つけるほどの熱意はなくて、私の周りでする人は彼一人だったのだから。
でも、今は。


「マジシャンとしてなら、二番目かな」


敢えて順番をつけるなら、と付け加えた。私にとってその二人は、二人とも、大切な存在である。


「、一番は誰なんだよ」


真っ青な夏空に、唯一小さな雲があった。その雲は小さいがくっきりと白くて、透けることなどなくて、軽々と存在を主張している。


「真っ白な、怪盗さんかな」


暑い夏も、鮮明な雲も、すぐに過ぎ去る。

20150521
title by 花畑心中
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