薄い霞んだ雲が空にぼんやりと増えたり減ったりしている紫の夜。雲に隠れて輪郭が曖昧になったり、生き物のように光が揺れたりするが、薄いおかげで透けるように光は宙を通り抜け闇になることを防ぐ。
今日は色々と疲れた。青子がデートと言うから何を企んでいたのかと思えば、中森警部が俺をキッドだと言い張るからその濡れ衣を晴らしてくれたらしい。正確には濡れ衣でもなんでもないが。 抜け出すのは簡単だったが、バレないよう時間に戻ってくるのが大変で幾度も振り回された。 しかし、なんとか青子の鈍さのおかげで中森警部の疑いもはれそうだ。 青子を送り届けた後、いつものようにある場所へ行く。
「こんばんは、怪盗さん」 「こんばんは。逢瀬を重ねる度ますます綺麗になってゆきますね」 「あなたもどんどん気障になっていくね」
呆れたように笑った。 ゆるゆると柔らかい波を描いて肩に落ちる髪の毛を見ながら、定位置に座る。 彼女は、最初出会ったときから、大人びた目をする。 いつも見る横顔が、そうさせるのだろうか。
「今日、って何か予告してたっけ」 「そうですよ」 「そうなんだ、知らなかった」
そう言って手摺りに腕を投げ出した。真っ白な腕は暗がりでも浮かび上がる。 彼女がキッドの仕事を知らなかったなんて珍しい。いつも名探偵に教えられたり、マジックのためにニュースでチェックしているのに。そういえば、ここ最近学校で彼女に近づくことが少なかった。遠くから見ていれば、どこか心ここにあらずなそんな浮き世離れしている気がする。
「そういえば、もう一枚予告だしたでしょ」 「そっちは知ってんだな。ていうか、まだあれ情報公開してなくね?」
今日のこともあったから、警察が混乱を防ぐために情報をまだ差し止めているはずだ。現にまだニュースで見ていない。なんで彼女が知っているのだろう。
「園子ちゃんちの何かを狙ってるんでしょ?今日電話かかってきて、一緒に行こうって誘われたの」 「……オメー、鈴木財閥の娘と仲良かったのかよ」 「キッドのおかげでねー。新一くんに無理矢理連れられた時に、知り合って」 「ふーん。で、行くのか?前に無闇に見にくんなって言っただろ?」
夜の空中飛行をしたあと、後日きちんと忠告したはずだ。危ないから無闇に来るなと。私が行きたくて行った訳じゃないのになんで説教受けてるの、と拗ねた彼女が可愛かった覚えがある。
「……だって大阪だよ?」 「それがどうしたんだよ」 「ついでに大阪観光しよう!って誘われて、ホテルも園子ちゃんちの関係だから安くなるらしいし」 「さすが鈴木財閥だな」 「それに多分キッドは新一くんたちが追うから私たちは関係ないよ」 「えー、つまらねえ」 「私に何を期待してるの」
変なの、と言ってまた笑う。 今日は、よく笑う。 その様子が、なんだか違和感で、声が、高いような気がして、ふわふわと浮いていて。 いつも笑顔な彼女だけど、今日は飛んでいってしまいそうな、霞んだ表情をちらつかせる。まるで、今宵の薄雲のようだ。
「……怪盗さん、聞きたいことあるんだけど」 「なんですか」
彼女はよく、俺のことを怪盗と呼ぶ。 からかうとき、呆れたとき、笑うとき、怒るとき。 そして、何かを、恐れているとき。 ゆっくりと手摺りに自分の顎を乗せて、強制的に俺の方に顔を向けられないようにしている。低くなった視界には、おそらく俺はかろうじてしか、映っていない。
「あなたは、いつまで私のところに来てくれるの」
息が、止まったかと思った。あまりにも、予想から外れていた言葉を、さらりと口にする。
「……名探偵に、何か言われたか?」 「なんにも言われてないよ。ただね、最近ちょっと考えてて」
軽やかな炭酸水のように弾けて放つ声は爽やかなのに、空の重たい湿気を含んでそれは苦い水になる。 彼女が、最近心ここにあらずのように見えたのは、俺のせいだったのか。
「あなたは、いつ私を利用するの?」
それは、純粋な質問だった。どこにも非難は含まれていなくて、怒りなどもなくて、ただ純粋に彼女はキッドに利用されると心底信じきった顔をしていた。
「……利用、ですか?」
自分の掠れた声が、無理やり音になる。平然を装って言える限界の短さ。 それに、ちがうの?と目を見開いて尋ねる。小首をかしげる彼女は、重力がないように風に吹かれていた。
「ただの気まぐれかもしれないけど、それにしてはあなたにはデメリットしかないから、てっきり何かに利用されるのだと」
利用できるような価値があるとは思わないけど、とまた笑う。
「……俺に来て欲しくないと?」 「違うよ。私は、怪盗さんと過ごす時間は嫌いじゃないし、利用するのも別にいい、けど」
風がやむ。音もやむ。じわりとべたつく汗が背中を伝う。星など一つも見えない、うっそりとした暗がりは、ただ雲の流れを早くする。
「あなたの優しさだけの行為なら、私のためだけの行為なら、もう、来てくれなくていいよ」 「……それは、なぜですか」
余程、彼女の考えての言葉だったのだろう。自意識過剰でしょう、と言うように、馬鹿にしてもいいと、怒ってくれと雰囲気が言う。 言葉は優しいが、それは、紛れもない拒絶だった。 いつか、言われるかもしれないと分かっていた。けれども、彼女なら、という甘えに溺れていた。
ゆっくりと、こちらを見る彼女。あちらから見ても俺の顔は見えないはずなのに、真っ直ぐと俺を見てくる。モノクル越しに見える彼女の瞳を、奥底まで俺は覗くことができなかった。
「私が、あなたに、逃げちゃうから」
微かに笑みを浮かべた彼女は、まるで自分に対して嘲ったようだった。 理解したいようなしたくないような、矛盾した感情を抱えたまま、人より回転の速い頭は、くるくると堂々巡りする。
「どういうことだよ」
逃げる、とはどういうことなのだろう。そして、なぜそれがいけないことになるのだろう。 何かを躊躇うように、彼女はどこか縋るように俺から目を逸らす。 掴んでいた手摺りにある手に力がこもる。
「……似てるから、好きな人に」
透き通った声が、浮かんで消える。
「好きになっても仕方がない人を、好きになったの」
思わず、嘘だろ、と言いかけそうになった。 今、自分は誰だ。白い、怪盗でしかないではないか。
だから、と息を小さく吸う。
「このままだと戻れなくなる。それは、迷惑でしょう」
曖昧な言葉で包み込む彼女はずるい。あなたには、わかるでしょう、とそんな顔をして言うのがずるい。あなたの言う通りだから。俺は、分かってしまった。 彼女が、今の俺に依存するのは俺に負担になるだけだと、それなら、いっそ私を切り離してくれと、利用するのなら割り切れるが、そんな優しさなど、自分には辛いだけだと。
ずるいと、思った。君は何も知らないから、何も知らないからそんなことが言えるのだと。苦しく窒素が肺を占領する。溺れた鳥が、ばたばたと不恰好に羽を毟る。
「あなたは、ずるい人だ」
彼女は何も言わなかった。 このまま自分を好きになってしまえばいいのに。そうしたら、そんな表情をさせないのに。離してなんか、やらないのに。 こうやって遠ざけようとするほど、似ているから怖いと言うほど、あなたは、そんなにも、誰かの事を好きなのか。
「私は怪盗ですよ」
彼女の前に跪き、その手を掴む。戸惑うように彼女の瞳が揺れる。
「あなたの苦しみも、寂しさも、私が盗んであげましょう」 「だから、」
抵抗する声を遮って、私は白い手の甲に口付ける。ぴくりと震えるその指を、離したくないと心から思った。
「あなたも利用すればいい。俺が、あなたを利用しているように」
利用するのはいいのでしょう、と下から見上げて言ってみる。 嘘は言っていない。彼女に会うために、二人の時間を作るために、どれだけ自分はこの肩書きを利用しているというのか。 最初に騙したのは、俺だ。
「だから、私を」
心臓を鷲掴まれたまま、俺は声にならず呟いた。
懇願。 20140805
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