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- ナノ -

髪を切った。
邪魔だったから。
服を捨てた。
窮屈だったから。
口紅を捨てた。
嫌な事を思い出すから。
煙草だけはやめられなかった。







早朝の、酷く冴えた空気は、東京でも爽やかで冷たい。私の頬を凍らせて目はぱきぱきと音がした。青の透明に光る空の遥か上を見ながら、ハイヒールが削れる音がする。
コートからはきつい部屋の匂いがして居心地が悪かった。口紅だけを辛うじて塗った。よれた化粧は恐らく顔を酷いものにしている。新しく気まぐれで買ったイブサンローランの口紅は若々しくて、私には多分、似合わない。無意識に前のルージュを買おうとしている脳内を無理やりに打ち消した。
わかりやすく飲んだ。我を忘れようと半ば躍起になってワインを煽った。低くはないアルコール度数はいつもよりも多く必要で、過剰な演技がそれを助けた。白ワインの明るさに隠れて、ひらりひらりと流れに任せた。知り合いのパーティ程までいかない食事会。皆良い年で、良くも悪くも澄ました人間ばかり。誰が抜けようと自分のことで精一杯で誰も気づくものはいなかった。きらきらとした清潔な鏡が頭をよぎった。私よりも少しだけ背が高くて、焦茶色の髪の毛をした眼鏡をかけた男だった。声はもう、分からない。まともに考えることでもなかった。ただ嫌だったのは安っぽい煙草の味がしたことだけ。
居候先について鍵を取り出した。辺りはなおも静かで、この歳になってなんだかいけないことをしている気がする。誰にも後ろめたいことなどないはずなのに。
鍵をかちりと開けゆっくりと玄関に入る。早朝の玄関はひどく暗くて青い。最低限のマナーとして、できるだけ音を立てずにヒールを脱いでぺたりと床に足をつける。ひんやりと冷たい。それが酷く心地いい。そのまま書斎を通らずに階段へと足を伸ばそうとした。


「朝帰りとは、悪い人ですね」


気配なく突然聞こえたその声に、音として体が驚く。飛び跳ねる心臓と肩に足音がぱたりと鳴った。顔をそちらに向ければ、少し先にある書斎の扉が開いている。そこには同居人が扉にもたれ腕を組んでいた。相変わらず細い目は何を考えているのかこちらに悟らせない。


「貴方には関係ないでしょう」


安堵の溜息をついた。それにしても彼はなぜこの時間に書斎にいたのか。眠れなかったのだろうか。


「ママを気にする年齢でもないでしょ」


軽口を叩いて話を終わらせる。階段に足を向け登ろうとした。


「………まだ何かあるのかしら」


腕を引っ張られる違和感が足を止める。後ろを向けば彼が腕を掴んでいた。睡眠不足と疲労と酒の残りが私の思考回路を未だ鈍くしている。気配が煩かったのか、そもそも彼は何を。


「随分楽しまれたようで」


その手は強く腕は動くことはない。振り向くことのないまま私は気だるげに視線を段差へとやった。


「しつこいわね。貴方には関係ないことだわ」
「そうですね」
「そう思うなら早く腕を離しなさい」


離そうとしない彼に、痺れを切らして振り向いた。すると腕を強く引かれ一段目に掛けていた足は引っ張られる。私は目を見開いたまま。彼に掴まれた腕はそのままに引き寄せられ、正面には彼の顔が至近距離に広がる。
意味が分からなかった。彼に何をされているのか、何故、そうするのか。コバルトブルーのクラッチバッグが手から滑り落ちた。その音すら、聞こえない。動こうと力を入れてもびくともしない。格好の餌食の如く引き寄せられた腰と、もう片方の手は一つに纏められ、彼に右手は後ろ首に回された。

抵抗しても所詮男と女だ。まざまざと見せつけられそれすらも惨めだった。
追いかけるように彼は器用に私を捕らえて離さない。右手は降り始めてどことなく危険さだけを醸し出す。慣れた手つきが嫌で仕方なかった。レースのワンピースはぴったりとしていて彼の手つきがよくわかってしまう。離そうとしても離れずさらに酷くなっていくばかり。何故私は抵抗しているの。そんな馬鹿みたいな理性すら簡単に崩れかけて。確実に絆されていく体を切り離してしまいたかった。大きな手はごつく滑らかで、冷たい。隙を見せない口付けは私の思考を奪っていく。


「やめて、」
「そう誰かにも囁いたんでしょう」


辛うじて出た言葉は最早言葉ではなかった。掠れた息が憐れだった。その音すら確実に聞き取り返すその平静さが憎くて仕方ない。

だから嫌なのだ。彼のキスは。
今回もまた、突然で、この人は優しげにみえて全然優しくない。こちらを振り回し好き勝手に翻弄し、そして慈悲を見せる。
それは情か、欲か。
私は嫌いだ。
何のために、違う人間で誤魔化しているのか。
あの人と同じ口付けを、しないで。


「やめてって」
「だから、そんなことを言っても、」
「やめてって言ってるでしょ!」


気づけば青い空間に、ばちりと音が響いていた。コートはすでに下にくしゃりと落ちている。すべての動きが止まった。あげた手は戻らず、彼の瞳は少し見開かれている。今はまだ赤くないけれど、もしかしたら段々と色がついてくるかもしれない。
久しぶりに人を、叩いた。
好きでもないのに、たかが年下の戯れで、何もうまれるものはないのに、利用すれば良いのに、何故私が傷ついているのだろうか。


「私に、関わらないで」


何故、彼は何も言わず、何故、階段を駆け上がりながら、私は涙が止まらないのだろう。


20170403
title by 東の僕とサーカス