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彼女にとって、踏ん切りがついたのだろうとぼんやりと思った。どんどん調子はよくなっていて、規則正しい生活習慣をつき始めて、さらに男を打ち切るように彼女は何も言わずに峠に足をのばした。俺が知る限り、仕事で足を運んだ以降、話すことも訪れることも一切無かったと記憶している。そんな彼女が、他人に姿を見せたまま、長い間あの場所で夜を見ていた。
憑き物が取れたよう、とは言わない。沈黙のまま帰ってきた二人は何の距離も変化はない。前を見ようとしているが、何処か避けているようで、焦りや必死さのようなあからさまなものでも無く、寧ろ微笑みながら深い深い奥底で一人静かに沈んでいくようだった。このまま、誰にも気づかれることのないまま、彼女自身さえも欺いたまま、何処か遠くに行ってしまいそうな、後戻り出来なくなりそうな危うさを含んでいた。恐らくその中に、昇華されないまま残っているのに忘れてしまう可能性も垣間見えたからだったろう。危うさという言葉に頼りながら、前を見始める彼女を我儘に引き留めようとしてしまう感情を必死に隠した。







その日は雨が降っていた。朝から曇りであったが天気予報は何も言っていなかった。車を持っていない私は公共交通機関を利用して通勤している。駅までの手段は徒歩であった。帰り際、米花町に着けば土砂降りの雨だった。雨の音は嫌いではないのに、その日の雨の落ち方は大層雑なもので、嫌になる湿っぽさを連れてきていた。
辛うじて入っていた折り畳み傘をさすも、酷い雨は弱い傘を意味のないものにした。天気予報で言っていないのだから、おそらく通り雨、そして私の心は急いで仮住まいに帰るよりも、雨宿りという目先の欲望に心が傾きかけていた。


「いらっしゃいませ」


爽やかなテノールが聞こえた。人気が少ない雨の中、扉をあければ鈴が鳴った。エプロンをつけた店員がこちらに向かってくる。
それを見て、脳内に警告が走る。踵を返すがすでに遅かった。


「どこにいこうとしているんです」
「……やっぱり帰ろうと思って」
「外は酷い雨だ。見た所、大分濡れているようですし雨宿りしていったらどうですか」


あなたもそのつもりで入ったのでは、と完璧な微笑みで放たれるその言葉が恐ろしい。扉に回り込まれて、少し開いたそれは閉められた。


「いかがなさいますか」
「コーヒー1つ」


窓際の席に座らされた。店内にはその店員一人しかいなかった。緩やかに流れるjazzのバックグラウンドで外の雨音が重なる。
少し離れたキッチンから、明るい茶髪の店員の後ろ姿が見えた。
何の因果なのだろう。偶然居候している家の近所で、このような形で出会うとは。


「お待たせいたしました」


かちりと、目の前に湯気のたつカップが置かれる。雨はまだ止みそうになく、さらに強くなっているようだった。ぼんやりと、店員の方を見ないまま私は窓を見ていた。もう何もかも、流れてしまえばいいのに。
すぐに消えるはずの気配がなぜかそこに留まる。窓から目を離せば、真正面にその店員が座った。他には誰もいない喫茶店に、窓を雫が叩く。


「職務怠慢では」
「少しくらい相手して下さいよ。他にお客さんもいないことですし」


両腕で頬杖をついて、こちらを見る瞳は爛々と強い。


「随分と信頼されているのね」
「それは、僕ですから」
「さあ。初対面の名前も知らないあなたのことなんて、興味無いわ」


黒黒とした液体に、ミルクをいれた。


「そういえば、そうでしたね。僕の名前は安室透といいます」


にっこりと笑っていう彼に悪寒が走った。


「何も変わってないですね、ミルクだけを入れる好みも」
「私に今更何の用かしら」
「貴方から来てくれたんじゃありませんか」
「ただの不運な偶然よ」


ここの喫茶店の店員、安室透は人当たりのいい態度が特徴なのだろうか。


「連れないな」
「貴方こそ、私のことは嫌いじゃなかったの?」
「嫌いですよ。裏切り者のあなたなんて」


少し口角をあげて聞けば、そう返す。しかし、その表情は昔よりも微かに柔らかかった。


「まだあんなところにいるんですか」
「まだそんなことを言ってるの?」
「日本を捨てたあなたに言われたくない」
「そんなに寂しかったのかしら、後輩くん?」


そう軽口を叩けば、苦虫を潰したように眉根を寄せた。


「貴方は先輩でもなんでもない」
「そうね。私はただの医者だもの。この国に捧げる心臓はないわ」


彼を逆撫でしているのは分かっていた。それでも意地悪くしてしまうのは、元に戻れない過去を彼を通して見てしまったからだろうか。
日本人の私が、今の職業についているのは良くあることではない。元々私は日本の機関の所属医だった。それが今、他国の機関所属医になっているのは、単にあの人の言葉がきっかけだったとも言える。偶然仕事で派遣されていた私を誘ったのは彼だった。当時互いが何も思ってなかったとしても、事実としてその後私はvisaをとった。実質の引き抜きである。この国を捨てたと言われても仕方ないかもしれない。それからことある事に目の前にいる童顔の彼から、裏切り者と罵られるのだ。
だが会うのは久しぶりだった。生きていることも知らず、今何をしているのかも興味はなかった。


「それはあちらにとっても同じでしょう」
「ただの仕事よ」


国がどこだろうと、私にはただ雇い雇われの関係性だけしか意味はなかった。ただ、その組織に所属しているだけであり、執着も何も無い。


「赤井秀一が死んでもか」


思わず、カップを持った手が止まり空中に浮いた手は下がる。


「私には、関係ないわ」
「よくそんな事が言えますね。貴方は吸う人間じゃなかったはずだ。微かにしますよ、あいつの嫌な臭いが」


私は何も感じないが、酷く鼻のきく彼のことだ。本当なのだろう。息を吐いて、目の前の人間を見つめた。


「何を考えているの」
「ただ世間話をしたいだけですよ。驚きました。思ったよりも平然としているので」


彼は肩を竦めて言った。


「人間なんて、簡単に死ぬものよ」
「相変わらず冷めているんですね。よっぽど、他の同僚の方が思いやりがある」


胃に何か埋め込まれたかのように圧迫される。雨音はさらに大きくなり、世界が断絶したかのような錯覚をした。


「あいつがそんな簡単に死ぬタマだと思っているんですか」
「あら、同情してくれているのかしら」


表情は変わっただろうか。嫌に固執するその現実を何度無理やり引きずり出すのだろう。


「まさか。純粋な疑問ですよ」
「随分とメルヘンチックね」
「メルヘンとはどういう意味です」
「まるで、生きているように言うもの」
「そう願いたいのは、誰よりもあなたなのではないですか」


今度こそ私は笑った。


「馬鹿ね、」


雨雲の灰色が世界を覆う。乳白色に混ぜたその色は濁って纏わりつく。


「希望を持つこと程、惨めなことはないわ」


20170131
title by 東の僕とサーカス