その瞬間、何が起きたのか分からなかった。
ふわりと香る甘い匂いと、男の人の匂い。柔らかくあたるくすぐったい髪の毛に、がっしりと背中に回される筋肉質の腕。
「ぎん、さん?」
「……」
慣れない状況に、遅れて心臓が不規則に血液を送り始める。
「あの…銀さん?」
「……なあ」
すうっと耳元で彼が空気を吸う音がした。
「何してやがんだぁ!!」
がらっと大きな音がして、何かが飛んできた。ひゅんと銀さんの体とともに私の頭が押さえつけられる。壁と床の角に埋もれるように、わたしは横になって余計に銀さんの匂いが頭に回る。
「…うっせーなー。今お取り込み中ってのは見りゃ分かんでしょー?」
首に顔を埋めたまま喋るから吐息がかかってくすぐったい。
横を見れば柱に深々と刺さる刀。
「早く離れろって言ってンのがわかんねェのか?ァア?」
天パのおかげでよく見えないが、この声の主はきっと青筋を立てて私たちを睨みつけているだろう。
「銀さん、」
とんとんと軽く彼の胸板を押したら、ようやっと離してくれた。その途端ぐいと銀さんの頭が離れる。
「どういうつもりだテメェ…」
「男女があんな状態でいたらやることは一つっしょ?」
襟をひっつかめられても、ふらふらとした声で土方さんを見つめる銀さんは、わざと挑発するようににやりと笑った。
「てんめぇ…!」
さらにがっと力を入れて襟首を引っ張った。
「てかなんでお前がそんなに怒ってんの?自分とこのだからって恋路も監視されちゃうんですかー?」
はっと目を見開く副長。
確かにそうだ。彼はいつもそうだ。過保護なくらいに五月蠅いのに、彼の感情は家族のような小綺麗な感情しかない。それに引き替え、私は幾ら隠していても醜い欲望が顔を覗かせる。
「たかだか家族みてぇな関係しか築く気がねェお前には関係ねーよ」
見開いたままの土方さんの手をあっさりと取り外して襟を整えた。
「ほれほれ、警察は帰んな」
しっしっ、と虫を払うように手を動かす銀さんに、やっと我に返ったのか、突っ立っていた土方さんは目を瞬き、刀を鞘に戻して、無表情に地面を蹴った。
「……名前、帰んぞ」
背中を少しだけ向けて言う土方さんに、初めての感情が沸き起こった。へたり込んだままだった私の左眼には銀さんの白い着物が見える。
「……まだ、帰りません」
「何餓鬼みてぇなこといってんだ」
常に瞳孔が開いた眼が、余計に開いた。
「まだ、銀さんと話ついてないですし、そもそも私の非番は午後一杯です」
真選組の隊士は厳しく取り締まられているが、正直女中は外からの雇われであるから緩い。私自身は雇われではないものの、一応女中の扱いであるから、つまり、明日の朝、自分の仕事に間に合えばどこにいようが別段構わないのだ。
今、自分の表情はどうなっているのだろう。筋肉の感覚がない。
「だから、土方さんには関係ないです」
ああ、なんて馬鹿なことを私は吐き出しているのだろう。
少しの、沈黙が降りた。彼がくわえている煙草の灰がぼろりと大きく落ちた。
「……そーかよ」
黒の隊服が翻り、灰を黒の革靴で踏みにじりながら、踵を返して出て行った。
「………お前、よかったのか」
ついさっきまで迫っていたくせに、今度は後ろから引っ張る。ずるい人だ。
「よくないですよ」
もう、後悔している。後悔、というものか、懺悔というものか。得体の知れない感情は、上がったり下がったり内臓を傷つける。
彼が踏みにじった灰色が細かい屑になっている。まるで、私のようだった。
title by 東の僕とサーカス
20140202