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なみだの上にひろがるもの



名前が、消える夢をみた。


俺の真っ正面に立った状態でふんわりと微笑んでいた。まるで女神のように聖母のように俺を見つめる彼女の瞳は言いようにないくらい柔らかくて、これまで俺が数度しか見たことがないくらい優しい表情をしていた。本来ならそれを見て喜ぶべきなのに、なぜか名前がそのまま消えると思ったのだ。確信したのだ。手を伸ばしても、近いはずの距離は寸でのところで空を切る。走っても走っても彼女はどんどん遠ざかって、どんどんもやがかって、行くなと声にならない音を叫んでも掠れた音しかでない。どんどん視界が白くなって、どんどん何も見えなくなって、俺はとてつもない不安に襲われて、また叫んで、そこで目が覚めた。
ゆっくりと深呼吸をして、自分が見慣れた闇にいることを確認する。ひりひりと未だ心臓はこれ以上ないほど波打って、シーツを掴んだ。ようやっと今のが夢だったと自分に言い聞かせて、目覚まし時計をみた。通常なら見るはずのない針が早朝すぎることを告げている。どん、とわざと音をたてて寝返りをした。音が聞こえたことで、ちゃんと今いるところが現実だと安心できた気がした。枕に顔を埋めると、しっとりと生暖かいものが頬に染み込む。布に埋もれたままぱちぱちと目をまたたかせて、自分が泣いていたことに気づいた。
それを自覚して、なんだかいてもたってもいられなくて、飛び起きた。家族はまだ誰も起きていない。今日は、土曜日だ。俺はいつものように部活があるが、彼女は休みだから学校に来ない。ということは今日俺は彼女にあうことはない。


会いたい。


携帯を引っ付かんで、メール画面を取り出した。けれどもそのまま固まる。ゆっくりと深呼吸をして、真っ白な画面を見つめた。
なんて送ればいいのだろう。生きてるか、なんて馬鹿なこと聞けるわけがないし、会いたい、なんて今の時間に送ったって、きっと彼女が気づくのは俺が部活真っ最中のときだ。
それでも、会いたい。夢に感化されたとか、餓鬼みたいな理由だけど、ただ心のなかには「会いたい」の四文字しかなくて、自分の自分勝手すぎる我が儘な感情に呆れた。


「起きてるわけ、ねーよな」


メールが意味ないなら、電話か。それこそ、彼女に迷惑がかかる。放置しすぎて真っ黒になった画面を未だ見つめながら考える。日はまだ上っていないのか、仄かにカーテン越しからうっすらと見える光はまだ紫とオレンジの混ざった中間色だ。


会いたい。会いたい。けれども会えない。


まだ部活までは十分余裕があって、すっかり目が覚めてしまった頭が、感情を押し込めて寝て忘れるなんてことできないことを告げている。
そういえば。
あいつは面倒だからといって、休みの日でも放課後でも、基本サイレントのままだった気がする。学校で鳴ると没収だからだ。なら、音はならないだろう。それで気づかなかったら元も子もないのに、もしかして気づいてくれたら、なんてロマンチックなことを考えている自分を嘲笑った。
それに頼るほど、今俺はどうしようもなく彼女を求めて仕方がないらしい。


「バカだな…」


ふっと自嘲的な笑みが漏れてしまう。
結局俺は今彼女の電話番号の通話ボタンを押して、耳にあてているところで、繋がるまでの中途半端な時間が暗闇に広がった。
出ないだろうと分かっているのに、それでも少しでも期待している自分は、どうしようもなく我が儘で、自己中なのだろう。
ぷるるぷるると、無機質な呼び出し音がなり始めた。あと一回、あと一回、と無意識に数え始める自分の諦めの悪さに笑える。
もう5回以上鳴って、やっぱり、と耳から携帯を離そうとした瞬間、ぷつり、と音がやんだ。思わず驚いて耳に押し付けても、ざらざらとした小さな音がするだけだ。けれども、通話中には違いない。


「もしもし…、名前?」


まさか、そんなはずないだろう。


「…和成?どうしたのこんな時間に」


声に、ほろほろと所々に明るさがみえる。その台詞は、俺の台詞で、いつも休日は寝てるお前が、どうして。


「お前こそ、なんでこんな時間に」
「なんか目が覚めちゃって。だからベランダ出てたら、携帯鳴るんだもん。それが和成でびっくりしたよ」


いつもよりふわふわ度が高い気がする。学校ではしっかりもののさばざばしたキャラだが、本当はどこか抜けているぼんやりとしたやつだなんて知っているのは、俺と彼女の親友だけだ。
そういえば、あまり電話してなかったな。なんで、生の声と電話の声はこんなにも違うように聞こえるのだろう。少しだけ鼻にかかった声が届くたびに、心臓がちくりちくりと不規則に動悸する。


「なあ、」
「なに?」


優しく掬うように聞かれるそれに、一際きゅうと、痛くなった。


「会いたい」


まるで子供のように呟かれたそれは、俺自身驚くほど滑稽に響いて、けれどもそれ以上に自分の声が感情に満ちていてびっくりした。


「私も会いたいよ、和成」


しっとりと、穏やかに言われた言葉がさらりと寄り添う。それを聞いて、自分の中で何かが弾けたような気がした。


「今からいくから、待ってろ」


電話越しに聞こえる、え、という聞き返す声に構わず、電話を切って自転車の鍵を引っ付かんで家を飛び出した。
白くなりかけたまだ紫と桃色をもつ空の下、ただ静かな道を突っ走る。俺の自転車の踏み込む度に音がするぐんぐんとした音だけが、風に溶けて消える。
 

もっと、もっと、もっと早く。
 

立ち漕ぎをして、大きく風を切って髪が、流れるのが気持ちいい。浮かぶのは彼女の表情だけで、今なんで俺はこんなにも必死なんだろうとふと思っても、体は止まることを知らない。最近チャリアカーばかりだったせいか、異様なほどに体は軽くて景色はびゅんびゅんと変わる。この時だけは、真ちゃんの我儘に感謝した。


「ほんとに来た」


家の前で、携帯だけを握りしめながら立っていた彼女の髪の毛は、いつも一つにくくっているのに何も手が加えられていないようで、ふわふわと波打つ黒髪が新鮮で、呼吸が浅くなった。
笑いながら言う彼女の近くに、自転車を止めて向かい合う。ふう、と深呼吸をした。本物の名前だ。いつもの、俺の、名前だ。


「で、どうしたの。和成がこんなことするなんて」


少しだけ表情を曇らせて、俺を見た。


「何か、あった?」


心配をかけさせてしまったのだろう。朝のまだ蒸し暑くない風は俺たちの間を柔らかく通り抜けて行った。


「とりあえず、確かめさせて」
「は?」


困惑した表情の彼女の腕を引っ張り体に収めた。赤い顔をして固まってしまうところさえ愛おしく感じてしまう。どちらのか分からない波打つ心臓の音を聞きながら、俺とは違う柔らかさに、匂いに、温かさに、どうしようもなく安心した。
好きな人のぬくもりを知ってしまったから、俺はきっともう離れられない。


「……これで何を確認しているんですか」
「あー、やっぱお前のこと大好きだなって」
「なっ!」


腕の中の温度が上昇することすら容易にわかる。


「すっげー好き。まじ好き。名前が世界で一番好き」


彼女の肩に顔を埋めるようにして、ただひたすらに言い続ける。人間は、ひどく安心して、この狭い世界に入ってしまったら、素直に気持ちを言えるようになるのだろう。
何度も言われるのが酷く恥ずかしいらしく、ぽかぽかと背中をたたいてはやめてと煩い。それすらも、愛おしくて仕方ないことなんて彼女はきっと考えてもいないのだろう。


「なあ、」


少しだけ静かに呼びかける。


「俺さ、思ってたより名前のこと好きみたいだわ」


だから、離れないで。俺の見えるところにいて。もしはぐれても探し出すから。
自分の重すぎるアイを、彼女には秘密にしておく。俺の思いが少しだけ伝わっていれば、それでいい。このままずっと俺の中に彼女の温もりがありますようにと、白む桃色の空に浮かぶ微かな半透明さをともす上弦の月に願った。


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