09

陽の当たる明るい窓辺で、畳に座り込んで刺繍糸を針に通しながらチラリと向かいに座る尾形さんに視線をやって、その表情を確認してから目が合う前にスッと顔を伏せた。

尾形さんは、私の向かい側に胡坐をかいて、愛用の銃の部品をいったん取り外してからフーっと息を吹きかけてゴミを取り払い、また部品をくっつけて…と銃の手入れに夢中になっていてこっちの視線にはまったく気付いていないようだ。

今日は、朝から天気も良くて絶好のお出かけ日和だったので、てっきり尾形さんはいつものように出かけていくのだと思っていたら、朝からこんな調子で熱心に銃を弄っている。
ついにいつも腰に付けている装備も点検し始めて、どうやら今日は外に出る日ではないと決めたらしい。

私も今日は一日刺繍の仕事をする予定だったので、今日は二人とも勝手に各々の作業をしている状態だ。

別にお互いの予定を確認し合っているわけでもないんだけれど、あの口付けをした日以来、家に一日二人きりでいるなんて初めてで、なんとなく気まずくなってしまうのは私だけなのだろうか。

これまでの私と尾形さんの毎日は、一日が終わったら日めくりの暦みたいに剥がれて落ちていってそれっきりだったけれど、あの日からは何か違う気がして。

一晩寝たら、何も無かったかのようにそれっきりになってしまうんじゃないか、と思っていたあの日の夢の中みたいな口付けは、数日後の眠れない夜に、再び私の唇に落ちてきたのだから。

それは、唇がそっと当てられるくらいの軽いものだったけれど、だからこそ「二度目」ということを感じさせられる口付けで、そのおかげで剥がれて落ちて飛んでいきそうだったあの日とその夜が繋がって、私と尾形さんは一緒に時間を重ね始めたのだった。

それは、まるで縒る前の細糸一本でなんとか縫いつけられたみたいに、不安定で頼りない日々の繋ぎ方なのかもしれないけれど、確かに繋がってはいる、ということが、私の心に甘くて少しだけ苦い感情を落としていた。


…「俺に深入りするな」ってね、…全く。


思わず再び刺繍の手を止めて、尾形さんのほうをジトっと睨んでみる。
全く適当なこと言って、相手が初心な小娘だったら相当落ち込ませてたんじゃない?あの言葉。

…まあ、あんなのは二人の間でのただの言葉遊びだから、深く考える必要なんて無いのだけど、少しだけ気になっているのは尾形さんのほうのことだ。
それは、この人、何が「男女の深入り」だと思っていて、逆にどこまでが深入りでないと思っているのやら、ということ。

世間一般で言えば、身体の関係ってとこなのだろうか。
私たちは身体を重ねたことは無いから、深入りしてないといえばそうなのかもしれない。

だけどね、そんなもの無くたって、深入りしてしまう時はしてしまうものなのよね…。
どうしても心が持っていかれてしまって、愛しくて、どうしようもないその感情が頭も心も支配して、もう、戻れないって思ってしまうくらいの深い想いが。

そういう感情を、尾形さんはもしかしたら頭のほうではよく分かっていないのかもしれない、と思う時があって。


…まあ、そんな雑念があっても手だけは動かせるもので、スイスイと手癖で刺繍を進めていたところ、刺繍していたハンカチに突然影が落ちたので、ふと顔を上げた。

「……」
「…ん!?気になりますか?」


いつの間にか、装備の手入れを終えていた尾形さんが、まじまじと私の手元を覗き込んでいたので思わず慌ててしまった。

「…今日のはハンカチです…小物ですけど」
「フーン」

…別に、刺繍になんてそこまで興味はなさそうにハンカチをチラッと一瞥した尾形さんは、そのままゴロンと畳に寝転がって肘をついて、こちらを向く。それでも目線はチクチク動く刺繍針を追っているのだから笑いそうになってしまう。

…ホントはちょっとだけ興味あるクセに…。

「…そういえば、お前なんで刺繍なんて仕事にしてるんだ?」
「たまたまですよ。子供のころから繕い物はやらされてましたし、アイヌの刺繍も教わる機会があったので、一番得意なことだったんです」


一枚目のハンカチの最後の一目が終わった私は、最後を玉止めして鋏で終わりを始末して、ピラッと広げたそれを尾形さんに見せてあげた。女性向けの小物は大体お花や植物の刺繍がほとんどで、売れ筋の商品だ。

それを受け取って光に透かして眺める尾形さんは、「まあ、たいしたもんだな」なんて偉そうなことを言いながらもそれをまじまじと眺めている。

「…軍服に何か刺繍しましょうか?好きなものとか」
「馬鹿言え。そんなことしてるやついるかよ」
「いいんじゃないですか?どうせ脱走兵なんだし…」
「お前がそれを言うなよ…」

ハンカチをポイっと投げ返した尾形さんは、少し間を置いてから観察するように私の顔を眺めている。

「それで、ずっとここで刺繍をして食っていっているというわけか」
「…ずっとこの家にいたわけではないです」

ん?と眉をひそめた尾形さんが、寝転がったまま私を見上げて怪訝な顔をするので、少しだけためらってしまった。

「…前にいたのは…娼館…」
「……」

目を丸くして、少しだけびっくりしたような尾形さんの表情を確認してから、「…の、下働きしてました」と呟いた。

(なんだよ…)とでも言うように尾形さんが息を静かに吐くので、(何だと思ったんですか?)といった表情でジトっと見てあげると、すかさず視線をそらして誤魔化している。

「両親は早くに亡くなったので、物心ついた時にはそこに引き取られていたんですよ。まあ雑用とかの下働きでしたけど、そこで繕いものなんかやってたんです」
「それは分かりそうなもんだが、そこでなんでアイヌの刺繍なんか出てくるんだよ」


…まあ、やっぱそこが気になりますよね。

「…その娼館は追い出されたというか飛び出してきてしまったというか…」
「…は?」
「恋仲になった男性がいたって前に言いましたけど…その…」

…まあ、もうすでに話した過去のことだから、隠しても仕方ないのだけど、思い出すのにも結構、体力が要るというか。

なんとなく、気まずい視線で尾形さんを眺めてみても、尾形さんのほうは不機嫌そうに、でも続きを待っているように尖った視線を送ってくる。
覚悟を決めた私は、ふうっと大きく息を吐いてから、口を開いた。


「そこにいる時に、ある男性に出会って恋仲になったんです。もう数年も前で18くらいの時でした」
「……」
「でも相手には、ほかに私が知らない婚約者がいたんです」
「…はあ」
「そして、その婚約者もまた私の存在を知らなかった。ある日ある時までは」

眉をひそめて私を見つめている尾形さんを一瞥して、一呼吸置いてさらに続ける。

「それがバレてからは大変でした。なかなかの名家のお嬢様だったその婚約者の家が、娼館にお金を払って不名誉に蓋をするよう依頼したというわけです。本当に大した金額ではなかったみたいですよ。娼館もそれでも良かったんでしょう。私に少しだけ餞別を持たせて独り立ちさせれば食い扶持も一人減るんですから。」

こんなに長く喋っていると、その間に一つ刺繍の模様が完成してしまうなんて大発見、だなんて考える私は、少しだけ胸は痛むけれど、思ったよりは古傷はふさがっていたようだ。

もちろん、声に出すたびに思い出すあの人の顔が、声が、そして手の熱さが、少しだけその古傷を引き攣らせることには変わりはないけれど。

「…それで、そこを出てすぐ、最後にあの人に会って…―最後は本当にあっさりでした…彼も家のことには逆らえなくて。そこから独り立ちしたときにアイヌの人たちとも知り合ったというわけです」


「…お前、そいつと結婚するつもりじゃなかったのか」

その言葉に思わずうっ…と詰まった私は、チラリと尾形さんを見て、紛らわすように次のハンカチを手に取って、刺繍糸をそれに通していく。

「…私はいつかはそうなるのかなって勝手に期待はしてました」
「馬鹿な女だな。騙されてたってわけか」
「…騙されてたわけじゃないです。世の中には二人の女を同時に愛せる都合のいい男もいるんですよ」
「…そんな男いるわけないだろ。お前も意外と初心なんだな。いいようにされてただけだろう」



…それでも、私が感じていたあの気持ちは、そしてあの人から貰っていたあの気持ちは嘘ではなかった、ということは胸を張って言える気がしたりして。もちろん、尾形さんには分からないだろうし、言うつもりもなかったけれど。


ただ、名誉や家と私を天秤にかけた時に、苦渋の選択だったとしても、最後はそれをあっさり捨てられる人だったというだけで。

もしかしたら尾形さんの言うとおりなのかもしれない、ということなんて自分でも分かっている。それでも私にとっては真剣だった思い出で、もしそれが尾形さんの言うようにいいようにされていただけとしたら、ぽっかり心に穴が開いてとても耐えられるとは思えない。だからこれでいいのだ。

問い詰める尾形さんには返事せずに、努めて明るく笑って尾形さんのほうを見やった。

「別に面白くない話です。すごく暗い過去というまででもないですし。結構こんな話、ざらにあると言いますか」

フン…と息を吐く尾形さんは、「全くだ」と呆れたようにこちらをジットリ小さく睨んで、腕組みして天井を見上げて目を閉じる。

「…本当に面白くない…」



…それは、どっちの意味なのやら。


昼寝を決め込むことにしたらしい尾形さんは、大きな欠伸ををひとつ。そして、ブルっと小さく震えてから、肌寒くなったのか陽だまりを探してキョロキョロしたあと、そのままゴロンと転がってこちらに近づいてくる。

「…膝貸せよ」
「……」

陽の当たる窓際で座る私の膝を勝手に枕にした尾形さんは、そのまま目を閉じて寝る体勢に。
シパシパ眠そうに瞬きしながらも、畳の上の籠から私の手元まで伸びる刺繍糸をツンツンつついてじゃれている姿は、まるで呑気な飼い猫みたいだ。


「ここがいいんですか?」
「…陽が当たるから」
「ふぅん…」

そう言って、これ以上の会話は無し、とでも言うように目を閉じた尾形さんは、しばらくすると本当にゆっくり寝息を立て始める。

…やっぱり、尾形さんて女心なんて全然分かっていないんだから。
自分のこんな子供っぽい我儘とほんの少しの独占欲が何なのかということにも気付いていないし、逆にそんな些細な尾形さんの行動が私の心を温めて、古い傷跡をどんどん癒していっていることになんて、気づいていないんだから。

木漏れ日の中の尾形さんの頬にそっと触れてその温かさをしばらく感じた後は、今度の新作は斬新に猫の模様の刺繍でもいいかも、なんて考えながら、のんびり針を進めたのだった。



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