01

小樽。

北海道の中でも人が多く、金融や商業で栄えた街である。
一方、街のすぐ背には広大な山と森が広がり、街と自然がすぐ間近に混在している。山の中にはアイヌコタンも数多く存在し、和人とアイヌの交流も比較的よくあるようだった。

そんな小樽の街中から少し外れた山の中腹、森の中に名前の家はあった。
訳あって人里からは少し離れた山中に居を構える名前は、刺繍仕事を生業にしていた。
普段は家で手仕事を、商品ができると街へ下り、販売や受け渡しをしがてら次の材料を仕入れてまた山へと戻る生活の繰り返し。

単調に思えるが、縁あって習得することとなったアイヌの刺繍を基本にし、自然の様々なモチーフを取り入れた刺繍の柄を考え、ひたすら刺繍小物を仕上げる仕事が名前は大好きだった。

大自然の中で創作意欲を刺激されながらのんびり暮らし、また、たまには街に出て流行を確認しつつ、ついでに甘味処にも寄る。
ありがたいことに、ここ数年固定客もつき、小物だけでなく衣類の仕立て仕事も入るなど、売れ行きは好調。平凡でもバランスの取れたこの生活が、何より平穏で気に入っている。

そんな生活に変化が訪れたのは突然だった。



「う、寒い…」

久しぶりに街に下りていた名前は、馴染みの小売店でいつもの通り数泊下宿しながら仕事を終え、食料などを買い込みつつ森の中の家に戻ろうとしていた。

家まではもうわずか。大きな荷籠を背負い雪の上をしっかり踏み固めながら歩く。体力に多少は自信はあった。
一時だけだが、アイヌコタンで世話になり生活していたときがあり、その時に学んだアイヌの生きる知恵は今でも役に立っている。

「あ」

ふと白樺の木を見つけて立ち止まる。
白樺の樹皮はアイヌ語で「シタッ」といい、焚き付けにとても役に立つ。

(荷物多いけど…ついでに取っていこう)

小刀を使い少しだけ剥がしたそれに「貰っていきまーす」と声をかけ、ポンポンと幹を叩いて感謝の印に。荷籠に放り込んで再び歩き出す。

今日は特に冷えるので、つみれ汁なんか作ろうかな…などと考えながら家のある場所に到着。豪華ではない山小屋風の家だが、一応水場も炊事場も作ってあり、裏には簡単な火起こしの風呂もある。

以前この森で狩りをして生活していた人たちの拠点のような小屋を改装したもので、女一人の住まいに広さは十分だ。もう少し上の方まで登ると、アイヌのコタンもあるが、名前の家のあたりは、コタン方面からも街からもあまり人が通らない、少し外れた場所にあった。

「よっ…こらしょ!」

家の入り口の前に荷籠を下ろそうとして、ふと足元の雪を見た瞬間、緊張が走る。

(…足跡がある。男のものだ)

それは、小屋の中に入る足跡のみで、出た足跡はない。

(まだ、中にいる………)

心臓が、一瞬で針が差し込まれたようにキーンと冷たく縮まるようだった。

(どうする私…。街に逃げる?)

一瞬思案し、一呼吸置いたあと、まずは息を殺して周囲を観察。足跡は確実に男の大きさ。名前が来た道と反対側から、心許ないような歩き方で、フラフラと左右に揺れながら小屋まで続いていた。

雪の上に血の跡はないが、このふらつき具合を見ると侵入者は、手負いかもしれない。

さらにもう一思案。

(怖い……でも、羆じゃないだけ、ましか…)と判断し、中に入ってみることにする。

小刀を右手にしっかりと握りしめ、音を立てないようにそっと戸を引くと、思った以上に木戸が滑る音がギギ…と響き、肩をすくめてしまった。

(…………)

そっと一歩踏み入れてみると、中は暗く、人がいるかどうかはすぐにはわからない。

(…………あれ?誰も…いない??)と、思った次の瞬間、

「…動くな」

同時に後頭部に感じる冷たい金属の……これは、おそらく、銃口。
身体の力が抜けて、弾みで持っていた小刀がキーンと床に落ちて月明かりで光る。そのまま背後から口を塞がれて、視界の端に侵入者が右足で小刀を蹴り遠くへやるつま先のみが見えた。

(怖い……身体の震えが止まらない)

このまま殺されるのか、はたまた辱めを受けるのか、恐ろしい想像が頭を駆け巡る。何も失うものなど無いと思っていた。しかし実際このような場面に直面したときに、震えるこの身体と心が、まだ失いたく無いものがあると言っている。

(意外に私、これまで自分の人生を楽しめてきてたんだ…)

と走馬灯が回り始めた次の瞬間、後頭部に押し当てられていた銃口が離れていくのを感じると、背後ではガタンと銃を壁に立てかける音がする。

「…お前を殺すつもりはない…」という低い侵入者の声が耳元で響いて、そう言いながらも口を塞いだ手はそのままに、もう片方の手が名前の腰へ伸びてきた。

(……そっちのほうか)

殺されないだけましだよね…。身体ひとつくらい。
でも、こんなの…やっぱり嫌だなぁ…と、涙が滲むくらいに揺らぐ覚悟を、現実に引き戻したのは侵入者の声だった。

「そのままこちらに振り返られるか?手は離すが大声を出さないでくれ。銃は置いてある。安心しろ」

……抵抗はしないほうが良さそうだ。…いや、そういうふりをして油断させて…と思考は過熱状態。
そんな風になかなか振り返らない名前にしびれをきらした侵入者が、掴んだ腰を起点にくるりと名前の身体をひっくり返して向き合わせた。

「キャッ……って、えっ…?あなた……?!」

思わず頭の先からつま先まで眺めてしまった。

軍服姿に、肩から羽織ったマント、髪型こそ伸ばして後ろに撫でつけているが、そこにいるのは紛れもなく大日本帝国陸軍、北海道では北鎮部隊として恐れられる軍人だった。どうして、こんなところに…。

「驚かせて悪い。危害を加えるつもりはない」と男は髪を後ろに撫でつけながら言う。軍人なのに、洋風なオールバック。何より…目がいくのはその顔だ。

理知的な顔つきに、感情の読めない冷たい瞳。伸ばして綺麗に整えた顎髭に、髭の一部かと思ったら手術跡のようなものが左右対象についている。が、その表情はやはりあくまで無表情。その言葉が真実か嘘かは見抜けない。
まあ、ここは相手の話を信じて流れに任せるのが得策か。

「……わ、わかりました。とにかく、なぜここにいたのか訳を話してくだ……キャア!!」

危害を加えるつもりはないと言ったそばから、男がふらっと抱きついてくる。
こ、この男……軍人のくせに、卑劣!卑怯者!!
思い切り跳ね返してやろうと力を腕に込めるがとても耐えられるわけがない。

「あれ?…あ、あれ?!わぁ!きゃ…痛っ!」

逆に男の体重がどんどん名前のほうにかかってきて、体重移動。支えきれなくなった名前は押し倒される形で男と共にドサッと土間に倒れ込んでしまった。

まずい!迂闊だった、信じた私が馬鹿だった!私このまま……と覚悟を決めて、目を瞑って数秒。

「…………あれ、あなた、すごい高熱ですよ?!」

押し当てられたその男の身体が、尋常ではなく熱い。こんな熱で今までよく立っていられたものだとびっくりしてしまう。
つい、「…すま…ん…」とゼエゼエ熱い息を吐く男の額に反射的に手を当てていた。外で冷えた手の冷たさに男の表情が一瞬和らぐが、依然すごい熱だ。顔の怪我のあとが関係しているのだろうか…。

これは、早くなんとかしないと…と、のし掛かる身体からなんとか抜け出し、男をひっくり返してとりあえず寝かせたあとは、冷たく冷やした布を持ってきて額に乗せた。 

あとは、軍人なら軍に連絡すれば…と思案していたところで、思考を読んだかのように息も絶え絶えの男が口を開いて主張する。

「…頼む…俺がここにいることは…誰にも…」

そう言って意識を手放す男は、気を失うように眠ってしまった。

(これは……やっかいな侵入者を拾ってしまったぞ
…)

腕組みして途方にくれながらも男の顔を見つめて何やら考えて、しばらくして、意を決したかのように布団を用意し、男を寝かせる準備を始めたのだった。

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