07

(はあ…情けない…)

浮上した意識で真っ先にそう考えて、ひんやり冷えるおでこの手ぬぐいを手で押さえて、はあ、と苦々しくため息をついた。
窓の外の様子からするにもう昼下がりで、少し長めの昼寝をしてしまっていたようだ。

尾形さんと、我が家に訪ねてきた軍人をめぐってひと悶着あったのが一昨日のこと。
その翌朝から、私は高熱を出して寝込んでしまったのだ。
あんな風に、強気で言い返しておいて、まるでそのせいで精神的にやられたみたいに風邪をひいてしまって尾形さんにも迷惑をかけてしまうのだから、もう大きい顔なんてできないじゃない、と恥ずかしさでただでさえ温度が高い自分の頬から火が出そうだ。

その尾形さんは、昨日はどこにも出かけずにずっと私の看病をしてくれていた。熱で温められた手ぬぐいをこまめに取り換えて、残っていたご飯で雑炊を作ってくれて、それはまるで最初の出会いの時と逆になってしまったのだった。

優しい言葉をかけられたわけではないけれど、夜中に自分の首元にそっと当てられる尾形さんの手の感触を感じて目を覚ましてしまい、薄目で様子を伺っていると、私の熱を確認しながらそっと肩を撫でたりなんかして、その思わぬ優しい事実に思わずドキリと心臓が跳ねて寝たふりをしてしまったり。

(それに…)と、ふと、自分の左頬に手を当てて昨日の朝を思い出す。

私の首元に手を当てて、熱を確認した手はそのまま私の額と頬へ。右頬を触った後に数秒ためらったその手は、左頬を通り越して戻っていくので、目を閉じたまま少しだけ笑いそうになってしまった。そこを避けるというのは逆に自分の平手打ちのことをやっぱり気にしている証拠だろう。

(「ごめんな」って、言えたら楽なんだがな)……って顔してるんだろうな、尾形さん。

ああ、でも、それは私も同じ。
あんなに物分かりのいいふりをしておきながら、結局好き勝手にかき回して、挙句の果てに風邪で寝込んで弱ってみせるなんて、本当に情けなくて恥ずかしくて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。

(ごめんなさい、邪魔して…強がって…心配させて…あとは、なに?)

私だって素直に言葉に出せたらどれだけ楽に生きられるだろうなあ、なんて。

目を開いて、ごろんと寝返りをうって横を向くと、洗面器代わりの小さなたらいが目に入る。ずっと枕元に置かれていたそれは、夜間もたまにチャポン…と水音を立てていたので、きっと夜通し手ぬぐいを取り換えていてくれたのだろう。

そろそろ起き上がれそうだから、片づけてこようかな、と身体を少し起こした時に、たらいの水面に赤い何かが浮かんでいるのに気づいて、思わず動きを止めてしまった。

それは、赤い実がついた枝だった。
雪の中でも負けずに真っ赤に鈴生りに実をつけるそれはこの辺りでもよく見かけるもので、鳥がその実を啄んでいるのもよく見かける。可愛らしい小粒の赤は、殺風景な家の中に一気に鮮やかな色を差すようで、思わず水から掬い上げて手にとってしまった。

…これ、尾形さんが持ってきたの…?
目を丸くしてまじまじと眺めていると、カタンと音がして木戸が開く。尾形さんが帰ってきたようだ。

「…おかえりなさい…」
「…もう良くなったのか」

肩に落ちた雪を払いながら入ってきた尾形さんが真っ先に私の元に来て額に手を当てるので、思わず頬が熱くなるのを感じてしまう。…なに、この優しい感じ。

「もう、大分熱は下がったみたいです」
「そうか、ならよかった」

顔色を変えずにそう言う尾形さんは、銃を壁に立てかけて、マントを脱いでその辺に置きながら湯呑を持って水場で水を注いでいる。その後ろ姿を見て、思わず口を開いていた。

「…この赤い実、可愛いですね」
「……」

ゴクゴク水を飲んでいる尾形さんは、振り返りもせずに耳だけこちらに傾けている。

「あの…どうしたんですか?これ」

躊躇いがちに切り出した私のほうに向かってきた尾形さんは、ドカッと布団の横に腰を下ろして改めて私の首筋に手を当てて、定時の体温確認。
そのひんやりとした指先の感覚にビクッと身体を震わせながらも、そっと尾形さんを見上げると、少しだけ困ったような尾形さんは、ボソリと口を開く。

「森に落ちてた」
「…持って帰ってきてくれたんですか?」
「……お見舞い」

…お見舞い。

たっぷり10秒はその言葉の意味を噛みしめて、私はアハハハハ…と思わず笑い出していた。

「尾形さん…急に優しいし可愛い…!」

涙を零して笑っている私を見て尾形さんは「元気になったんだな」と青筋を浮かべながらニッコリ笑っている。

ああ、もう。こうやって言葉なんてなくたって、「ごめんね」が言えるのが尾形さんなんだ。それが、本人がそうしたいと思っていなくたって。
どうしてか心が温められて、熱くなって、涙になって溢れてきそうで、それをごまかすために私はもっと笑えてくるような気がして。

「…もう元気なら今日飯作れよ」と拗ねて不機嫌そうに睨んでくる尾形さんに、「…いや元気じゃないです。まだ動けないな…」とふざけて横目で返すと、ふと何かを思いついたような尾形さんは面白そうに目を輝かせる。

「…へえ。だよな。まあ確かにまだ調子悪そうだ」
「…ま、まあ」
「で、お前、高熱出たから汗かいて気持ち悪いだろ。寝間着脱げよ。俺が拭いてやるから」

ニッコリ笑って手ぬぐいをいそいそと水に浸し始める尾形さんを見て、血の気が引いた私は慌てて寝間着の胸元を掻き合わせて抵抗。

「…い、いいです!平気です!」
「俺、お前が言ってた良いことも悪いことも表裏一体ってやつ分かったかも。お前にとって悪くても、俺は良いことしようとしてるからな、いいよな?」
「違う!それはこういうことに使うんじゃなくて…」

必死に胸元を押さえて後ずさる私をひっ捕らえて引き寄せた尾形さんは、脅すみたいにニヤニヤ笑いながら寝間着の袂に指を引っ掛ける。

「いいだろ、お前は俺のこと脱がせただろ」
「あれとこれは違います!」
「違わない」
「違います!だってあの時は、私、尾形さんのこと何とも思ってなかったけどー…」

……今は?

…なんていう気持ち、自分ではもう分かっているはずだ。
思わず固まってしまって動けない私に、尾形さんも動きを止めて静かになる。真っ直ぐ私を見つめて何やら思案顔だ。

ああ、まずい、こんな風に動揺したら余計に変な空気になってしまう。

…きっと愛とか恋とかそんな重いものでは無いと思っている。でも、この先時間が経てば必ずそうなるだろうと今確信しているこの気持ちは、結局恋なんじゃないの?

静かに止まった時間が苦しくて、思わず困った目で尾形さんを見上げると、そこにはいつもの真顔があった。

…こんな私の隠せない表情と空気で、きっと尾形さんだって何か察しているんでしょう?
恥ずかしくて切なくて、涙を必死にこらえて見上げた顔に、尾形さんの右手がゆっくり伸びてきた。
右手は私の左の頬に優しく当てられて、そこをそっと親指が這って撫でる感触。
何度も撫でて、表面の感触を確かめるようなその仕草は、まるで叩いて悪かったなという言葉みたいで、胸がぎゅうっと締め付けられてしまった。

頬に添えられた手は後ろに移動して、私の頭を後ろから尾形さんのほうに引き寄せる。
ゆっくりと近づいてきた尾形さんの顔は、少しだけ斜めに傾けられて急接近。
そのまま距離が縮まって、唇と唇が合わさる寸前で、私は尾形さんの胸を押してそれを止めていた。

「…待って。ダメです」
「…何だよ。何か言って欲しいのか?」

少しだけ気まずそうに、顔の距離はそのままで尾形さんがそう小さく囁いた。

「いえ…別に私は言葉にはあんまり頼りたくないというかあまり重さを持たせたくないというか…」
「…ならいいだろ」
「あの!そうじゃなくて…」

下唇を噛んで、心を落ち着けて、切なさに揺れながらも口を開く。

「…私、いつかはいなくなってしまう人と深入りできません」

しっかりと尾形さんを見据えてそう言う私に、まるで(賢明だな)、とでも言うかのように口角を上げてニヤリと微笑んだ尾形さんは、「…俺だってそうだが」と小さく囁く。

「…だったら…」と声を少しだけ大きくして見上げる私の顎を掴んだ尾形さんは、再びいつもの読めない表情に戻っている。

「…なら別に深入りしなきゃいいだろう…」と飄々と言う言葉に拍子抜けするのは私。
「…そ、そういうもんなんですか?」
「…そうだ」

そのまま再び頭を引き寄せられて、今度は寸前で止まることなく、本当に押し当てられたその唇は熱くて、想像以上に優しくて、頭の中が熱でクラクラ茹りそうだ。
尾形さんの唇は、それ以上奥に押し入ることなんてせずに、ただただ角度を変えて何度も押し当てられる。

さっきまでもっともらしいことを言って抵抗していたはずなのに、その口付けの甘さにこみ上げるのはたまらない想いと切なさで、涙が出そうなその頭の熱さと気持ちをすんでのところで冷静にして抑え込んでいるのは冷たい空気で冷やされた身体だった。

唇が離れてから至近距離で目を合わせると、尾形さんの手が私を抱き寄せて、そのまますっぽりと胸の中に閉じ込められてしまう。

「…これも尾形さんにとっては深入りじゃないんですか」
「…違う。深入りじゃない」
「じゃあ、何ですか、コレは」
「…知らん。お見舞いだろ」

その言葉に思わず小さな笑いが飛び出て、尾形さんを笑いながら小さく睨みつけると、
「…お前だって違うだろ?俺に深入りなんてするなよな」となぜか嬉しそうに頬を撫でられる。

抱きしめられて温められた身体の熱は、そのまま頭のほうへ。ついに我慢できずに一粒だけ溢れてきた涙の意味は何だろう。
甘くて嬉しくて心地よくて、だけど一番の感情は切なさだ。頭ではダメだって分かっているのに、こんなにも惹かれてしまうどうしようもなさに。

「…全然違います。深入りじゃありません」
「…だよな。俺もだ」

一筋だけ、左の頬に流れた涙は尾形さんの指で拭われて、それっきり。
思い切り抱きしめられて、再び口付けが降ってきて、今度は私も尾形さんの胸に手を寄せてそれに応えて目を閉じる。

…ほらね、やっぱり言葉には何の重さも無い。

ただただ音となって置かれるその表面的な言葉の意味の無さは、夢中で口付けを交わすこの時の私たちが一番よく分かっていたのかもしれないのだから。


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