05

どんどん唇を近づけてくる軍人の男の胸をぐいっと押しのけた私は、そのままクルリと身体を半回転させて、さりげなく遠くに見える尾形さんの銃口と男の間に入り込んだ。
そのまま、男の軍服の袂を掴んで引き寄せて、耳元で小さく囁いてあげる。

「…『そっち』は、好い人にしかしないんですよ。…さ、もう帰ったほうがいいです。私のお客様があなたの上官とも限らないのですし」

一瞬ビクッと身体を固くした軍人は、苦笑いを一つ落として、「…では、何か見かけたら知らせるように」と言い残して踵を返し立ち去っていく。名残惜し気に腰から離れるその手つきにゾワっと背中が震える感覚で思わず奥歯を噛んでそれに耐えるけれど、とりあえず事なきを得たと言えるだろう。

遠く、木々の間に見えていた尾形さんのほうを、目を細めて振り向くと、マントの頭はもうそこには無かった。

視線を元に戻して、雪に残った軍人の足跡を見ていると、頭がだんだんと冷静になっていくのが分かる。
…とりあえず、尾形さんに人を殺させなくて済んだ、という安堵感がまず一つ。
それは、尾形さんはあのまま行っていたら確実にあの人を殺していただろうという確信から出てきたものだけれど。

脱走する、というのはまだ分からなくもない…けれど、その脱走してきた隊の元仲間を消さないといけない理由は何なのだろう。尾形さんの行動には関わらないし興味がないとは言ったものの、それが何なのか理解できないまま起きた、あの軍人の男への銃撃未遂を前に、自分の取る行動としては、やっぱりあれしかないだろう、とも。

そんなことをグルグル考えていると、さくさくと足音がして、マントを深く被った尾形さんが戻ってくる。辺りを確認しながら足早に近づいてきて、まっすぐ私を見据えているその瞳はなぜかとても焦っているようだったので、思わず頬が緩んでしまった。
一応、心配してくれていたのかしら、なんて。

こちらに近づいてきた尾形さんに向かって、ニッコリ微笑んで思わず声をかけた。

「…尾形さんがあんなに殺気立たなくても、追い返せましたから、大丈夫ですって」

どう?といった風に自慢げに尾形さんを見る私が次の言葉を続けようとしたその瞬間、バチン、と音がして、急激に感覚を失うのは自分の左の頬。冷たい空気の中で、そこは蒸気が出そうなくらいに熱くなってくる。
思い切り、尾形さんから平手で打たれたことに気づいて、まず痛んだのは意外なことにも自分の心臓だった。
…私、何かまずいことした…?

頬を手で押さえて呆然と見上げると、尾形さんの表情はいつもと全く変わらない真顔で、だけど少しだけ口の端が強張っている。
そのまま声が出ない私の腕を掴んで家の中に押し込んだ尾形さんは、中からつっかえ棒をしてから私の肩を掴んで木戸に押し付けた。

「お、がたさん…」
「…お前は余計なことをするな」

そう言う声の調子はとても冷たくて、真剣だ。

「…あれが余計なことですか」

…人を撃つのを止めたのが。とは言わなかったけれど、言わずともそれを察した尾形さんはなぜかとても嬉しそうな笑みで私に顔を近づける。その瞳に、ヒヤリと喉の奥が冷えるのを感じて思わず唾を飲み込んだ。

「…お前、『良いこと』をしたつもりなのか?俺の『悪いこと』を止めようと?」

掴まれる腕に力がこもるのを感じて、唇を噛んで目を伏せると、顎を掴まれて上を向かされてしまう。

「お前、殺されてたかもしれないぞ。第七師団を舐めないほうがいい。俺が撃たなければお前なんて乱暴されるか、殺されるかだ。今じゃなくても、後でもな」

そう言ってニヤリと笑う尾形さんのその言葉を聞いた自分の心に、ふつふつと熱い感情が沸いてくるのが分かった。
なるほどね。尾形さん、やっぱりあなたは掴めない。何を思っているのか、何のために何がしたいのか。
だけど、それに付随する全ての感情を隠せているわけでもないのね。今みたいに。

「…いいえ。私がしたのは『悪いこと』ですね」と呟いて、そのままジットリ尾形さんを睨み返した。
面食らったような尾形さんは「何だよ、素直だな」なんて笑っているが、そんな言葉には構わずに、掴まれた肩から腕を引き剥がして、胸を押して腕の中から抜け出てさらに続ける。

「尾形さんが私のこと助けようとしてくれてたなんて、嬉しいです。だったら、尾形さんのしようとした『善行』を止めちゃったわけですね。そりゃ大変な悪行しちゃいましたよ」

そう言って、しっかり尾形さんを見据えると、しばらくの思考ののち、ムッとしたような表情で「助けようとか、そういうことではない」なんて困ったように呟いている。
そんな表情を見ていると、なぜだか頭に血が上ってくるようで、それはさらに叩かれた頬の痛みを思い出させるようだった。

「…実際にはそれだけではない。俺のことを追っているやつは誰であれ消しておくのが正解だ。お前ごと撃っても良かったんだ」
「…でも尾形さんはそうしなかった。いくら悪いこと言ってもその事実がここにあるだけです」

ズカズカと、足音を立てて家の奥に歩いていきながら、「尾形さんは、俺は悪いことしてるんだ、とか言ってましたけど、じゃあやっぱり今のもそうなんですか?!そりゃあの軍人さんからしたら頭を撃ち抜かれてたらさも災難でしたよ。でも、私がもし本当に手籠めにされようとしてたら撃ってくれてたらそりゃあ助かってました」と捲し立てる。

「おい…」と少しだけ控えめに後ろから声をかけてくる尾形さんをキッと振り返って、口を開く。

「だから、良いだの悪いだの他人が決めるのなんてご勝手に。私だって尾形さんを止めたのは、たとえそれが尾形さんにとって悪いことって知った今でもやりますね。悪いことなら悪いことって分かっててするほうがズルくないし覚悟も決まるってもんです。尾形さんもそうなんでしょう?だから、文句ありますか?!」

最後なんて、もうそれこそ機関銃みたいに言葉を投げつけて、自分勝手にすっきりしたら、クルリと後ろを振り向いて、台所の水場の縁に手をかけて、そのまま俯いた。
なぜだか、今になって急に怖くなってきて、正体不明の切ない涙が溢れてきそうで。

これ以上、この口論を続けていたら、本当に泣き顔を見せてしまいそうで情けなくて、どうかもう終わらせて…と念じて目を閉じると、疲れたようにため息をついた尾形さんが木戸を開ける気配。

「…俺はここに帰ってくる。戸締りはきちんとしておけ」

そう言って、ギイと閉まる戸の音に、ホッとため息をついてからそっと指であふれ出た涙を拭きとった。
会話が終わったことに加えて、尾形さんがここにまた帰ってくるという事実にも、ホッとしていた。負けず嫌いな私にとって、ここでお別れするのなんて癪だったから、なんて理由だけではないけれど。

戻ってきたら、冷静になっていつも通りの私でいてあげようかな。今夜は鍋にでもして。なんて考えて、まずはそっと水で濡らした冷たい布を頬に押し当てたのだった。


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