03

2日間ほどたつと、尾形さんの熱は完全に下がった。聞くと、雪山を歩いている時に誤って川に落下し、そのときに、途中で顎を思い切り打ち付けるなど、想像以上の大事故にあっていたらしい。
それで顎にあんな手術跡があったのか、と納得。むしろ、そんな大怪我の手術後に病院を脱走なんてして良かったのかしら…?というか、何がどうなったらそんなことになるのか…。
ただそれがどんな理由かは、自分に害がない限りは知らなくてもよいし、正直興味もなかった。

だから深いことは聞かなかった。今ここにいる病人を、助けようと思ったからそうしたまで。
本人からも、かくまってほしいとの話もあったし、私は来るものは拒まない主義なのだ。その代わり、去る者も追わないけれど。

「尾形さん、ご飯できました。」と、夕飯代わりの雑炊をお椀によそって布団のところまで運ぼうとすると、「…いい。そっちで食べる」とちゃぶ台を指す。
「いいですけど、起きられますか?」と怪訝な顔で問いかけると、「早いこと身体を動かさないと鈍って仕方ない。少しづつ外にも出なくては」とゆっくり起き上がってくる。そう言うそばからグラリと身体が揺れるので、慌ててお椀を台に置いてから駆け寄ってその手をとった。

「もう、無理しないでくださいね。一度は顎割れたんですから…」
「…割れたって言うな。折れたんだよ」
「別にどっちでもいいですけど…」

肩を貸してあげて、ゆっくり一緒にしゃがんで、やっと食卓へ。尾形さんはずっと寝込んでいたので、こうして一緒の食卓に向かうのは初めてだ。
「…あの、食べさせたほうがいいですか…?」と一応聞いてみると、ムッとした顔の尾形さんは「阿呆。自分で食える、このくらい」と匙で雑炊を一掬いして口のほうへ。

私も「いただきます」と手を合わせてから同じく雑炊を一口。つい気になって横の尾形さんをチラリと見ると、やっぱり久々に動かした右手の感覚が鈍っていたのか、口に運ぼうとした匙が顎にぶつかって、ぺしゃっとちゃぶ台に落ちる雑炊。

シーン、と静まる空気にゴクリと唾を飲み込む。
…そう、私もこの数日ほどで、こういう時に失敗を茶化したりしないほうが尾形さんの自尊心を傷つけないということだけは分かっていたのだ。

なので、そっと尾形さんを見上げて一言だけ声をかける。
「……どうですか?味は」

数秒の間。

「……まだ食べてない。…っていうかお前、今の見てただろう…!?」

…そう。茶化さないほうが自尊心を傷つけないのは分かっているけど、茶化さないとは限らない。というか、尾形さんの取り繕おうとする反応がいちいち面白くて…。
笑いをこらえながら匙を取って、すくった雑炊を尾形さんのほうに向けると、ニッコリとコワイ笑顔でパクリと一口だけ口に入れて、匙を再び奪い取る。

「お前、本当いい根性してるよな」と、今度はきちんと雑炊を口に運ぶ。
「…よく言われます。でも、尾形さんこそ、私はこんな感じなので、気楽に普通にしてくださいね」
「…どういう意味だ」
「…別に私は尾形さんの敵じゃないので、気を許していいですよってことです」

しばらく黙って雑炊を食べていた尾形さんは、匙を食卓に置くと、静かに口を開いた。

「…一応、はっきりさせておこうと思う」
「はあ」
「かくまってくれ、と言ったが、お前は本当にそれでいいか?」

真っ直ぐ私を見る尾形さんの瞳の中の感情は、私には読めない。疑っているようにも、ただ不思議に思っているようにも思える。そして、少しだけ面白そうにも。

「いいです。でも、私は私で普通に過ごしますよ?仕事もあるので…。この家は自由に使ってもらってかまいません。ずっとここにいてくれてもいいですけど、できれば色々できることを協力していただければ、なおありがたいです」
そう言って、気にしないでくださいね、と笑いかけると、尾形さんは少しだけ目を丸くしつつも、さらに続ける。

「…そういう家のことの面もそうだが、俺みたいな男が…脱走兵がいても大丈夫なのかってことだ」
前髪を撫でつけながら、こちらを見つめる尾形さんの視線は少し厳しい。
まあ、そんなに疑われても私に言えることは少ないのだ。

「…尾形さんが誰で、外で何をしようが、あんまり興味はありません。それに、私から何をしているのか聞いたりもしません…。それよりも、家のこと協力してくれたほうが嬉しかったり…」と、てへへ、といった感じで笑うと、尾形さんの口角も少しだけ上がる。
「分かった。お前が変な女だってことは…」とははッと笑うその顔は今までになく嬉しそうだ。

…不思議と、尾形さんといると緩んだ空気になってしまうんだよね。こうやって、人と食卓を囲むのも随分久しぶりな気もするし。なんだか、少し楽しい。

…結局、二人であっという間に雑炊を食べきって、身体を慣らすとか何とかそういう適当な理由を付けて片づけも尾形さんに手伝ってもらったのだった。



夜も更けて、さて、寝る時間だ、と寝間着で寝床のほうを振り返る。
ふと見ると、寝間着代わりの浴衣に着替えた尾形さんが布団の前で立ち尽くしているので、不思議に思い「…どうしました?」と近寄った。

尾形さんは腕組みをしながら渋い顔をして切り出した。
「…今までは寝込んでいたから気づかなかったし、つい甘えていたが、こうして布団を二組並べておくのも悪いな。…お前、嫁入り前なのだろう」

…あら、そんな気遣いもできたのね、尾形上等兵殿…。

「俺は土間でもなんでもいい。布団が無くても眠れるから、場所だけ貸してくれればいいぞ」
なーんて、急に他人行儀な距離のとり方。別にそれでもいいんだけど…。
「大丈夫です。こんなところで女一人で暮らしてるくらいなので、そういうのは気にしません」
「そうは言っても、後で責任取れと言われても俺は知らんぞ」
「…責任取るようなことするつもりなんですか?」

あ、眉間に皺。

「…するつもりはないが、お前は女で俺は男だ。何もないとも言い切れん」
「大丈夫ですって。尾形さんのことは信じてます」
そう言ってさっさと自分の布団の上に座って寝る支度を始めると、ムッとしたような尾形さんも隣の布団に胡坐をかく。

「お前なあ、普通こういうの男女逆だろう。お前が嫁入り前だから心配してやってるのだ」
少しだけ、本気で心配しているような尾形さんの声の調子に、さすがに申し訳なくなってきてしまう。寝支度の手を止めた私は、尾形さんのほうに向きなおった。
別にそれが理由というわけじゃないが、心配させるのなら触りだけ話してもいいかもしれないな。

「…あの、嫁入りはしてませんが、生娘ってわけじゃありません。うまくはいかなかったけれど好い仲になった人はいたんです」と、目を伏せて呟いた。
…それは、真剣だった割に嫌な形ですぐに終わってしまったもので、いい思い出ではないし、むしろ悪い思い出だ。それに、こんなこと男の人に話す話ではないけれど。でも、自分の過去にある事実は事実なのだから、隠しておくことでもないし、責任を感じさせる必要もない。

尾形さんはびっくりしたように目を丸くしたあと、「…そうか、分かった」と呟いて、隣の布団に潜り込む。私も、いつも通り自分の布団に潜り込み、背中を向けている尾形さんのほうを向いてその後ろ姿をそっと眺めた。

尾形さんはずっと寝込んでいたからそうじゃないかもしれないけれど、私はこの数日、隣に尾形さんがいることが、不思議とすごく安心できて、なんだか、夜に感じる温度も温かかったというか。だから、今のまま、もう少しいられたらって思ってしまったのだ。

小さく息を吐き出して、目を閉じると、隣の布団で尾形さんが寝返る衣擦れの音がした。つい目を開けると、振り返ってこちらを向いた尾形さんと近い距離で目が合って、思わずドキッとしてしまう。
尾形さんは、私をしばらく見つめたあと、「…まあ、俺からは聞かないけど、言いたくなったら言っていいぞ」なんて言って、少しだけ気にしてくれている様子だ。きっと、私の様子から何か嫌な思い出なのだと察したのだろう。

「…ありがとうございます」と返事して、クスリと笑うと、頬を緩めた尾形さんとしばらく見つめあってしまう。
しばらくそうしていたあと、「私からも聞いていいですか?」と切り出した。

「尾形さんが何をしてるのかは聞かないって言いましたけど、尾形さんは良いことしてるんですか?それとも悪いことですか?」

それを聞いて面白そうにニヤリと笑った尾形さんは、「…それで、俺が悪いことって言ったら、お前どうするつもりなんだよ」と、半分呆れたように返してくる。
「…別に。どんなことにもそれに関わる人の視点によっていい面と悪い面がありますし。ただ、尾形さんがどっちのつもりでそうしてるのかは知りたいなあって」

すると、布団の中から出てきた尾形さんの手が、ハラリと落ちて私の目にかかった前髪をそっとかき上げる。

「…俺は脱走兵だぞ。悪いことに決まっているだろう」

そう言う尾形さんの目には何の色も見えない。何も考えていないのか、何かを隠しているのかはまだ分からないけれど、返ってきたその言葉の間に、私は何かを感じ取ったのだ。

「…分かりました」と返事して、尾形さんを見ると、「隣で寝るの怖くなったか?」と意地悪そうな笑みで私を見るので、
「どうでしょうね。難しいです。悪いことを、自分は良いことをしているって思いこんでする人もいますし……その逆も」と返してあげる。

一瞬言葉に詰まった尾形さんは、すぐに立ち直って「まあ、お前、勝手に人を脱がすから俺のほうが隣で寝るの緊張するがな」と冗談で反撃して話題を変えてくる。
なので、こちらも無言で冷たく冷えた手を布団の中の首筋に差し込んであげると、「おわっ」なんて冷たさに飛び上がって転がっているので、尾形さん以上の意地悪な顔でニヤリと笑って報復宣言だ。

「…やってくれるじゃねえか」と楽しそうに笑う尾形さんにニッコリ微笑みだけ返して、さっさと向こうを向いて目を閉じた。まずいまずい。これ以上遊んでると、本当に楽しくなってきちゃうから。

「おやすみなさい」と囁いて、これからの生活に思いを馳せた。
しばらくは、朝起きると尾形さんがいて、お互い好き勝手生活して、またここに戻ってくる。短い間だけかもしれないけど、何だか楽しそう。そんな風に考えながら、私は意識を手放していったのだった。
…数分後に、反撃に出た尾形さんに冷えた足を布団に突っ込まれて悲鳴を上げて起こされるとも知らずに。

ぎゃあ!と悲鳴を上げて飛び起きた私に対して面白そうに笑った尾形さんは、自慢げに「驚いたか?しばらく足を布団の外に出して冷やしといたからさっきより全然冷たいぞ」なんてフンと鼻息をひとつ出すものだから、「子供ですか!?」なんて雷を落としてわあわあケンカしながら眠りについたのだった。

まあそれでも、これまでの生活よりも随分暖かな楽しい夜になったのだけれど。

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