04

(…おやすみなさい)

…目が覚めて、まず俺の頭の中に浮かんだのは、昨夜の名前さんのその一言だった。

少しだけ閉めかけたドアの向こう側から、静かに微笑んで、一言。
ゆっくり閉まっていくドアの動きは空気を揺らして、部屋の中の甘い匂いだけを廊下に置き去ってガチャン…と音を立てる。
その蜂蜜みたいな匂いも、おやすみなさいという声のトーンも、全て鮮明に思い出せた。

起きたばっかりなのに、おやすみなさい、かぁ…と、思わずポリ…と温度が上がった自分の頬を掻いてしまう。
そのままむくりと起き上がり、布団の上にあぐらをかいて昨夜のことを思い起こす。

ロナルドの後を追って、街中に出現した下等吸血鬼の怪物を倒しに走っていた時に見つけたのが、名前さんだった。

そう、壊れかけた建物の影に隠れている名前さんを見つけて、避難させなくては、と声をかけようとしたところで彼女が走って飛び出していくからびっくりしてしまったんだ。
上空にはコンクリートの塊。
慌ててその先を見ると、そこにはジョン。

…まさかジョンを助けようとしてるのか?この人?
小さなコンクリートの塊でも、あの高さから落ちてくるのに当たったら、いくら何でもかすり傷では済まないだろう。
あまりに無鉄砲な彼女の行動に、俺も思わず助けに飛び出していた。

ガントレットを後ろ手に回して背中をガードしながら、案の定途中ですっ転んで動けなくなっている彼女に覆い被さる。
コンクリートの塊がそこまで大きくなかったのが良かったのか、ほとんどはガントレットで弾き返すことができたのだが、弾みで砕かれた残りの破片が背中にあたって鈍い痛みが走る。
でも、とりあえず、全員無事だ。

しばらく呆然としていた彼女は、いきなりガバッと振り返るのでその顔の近さにドキッとして……。

右の手のひらを開いてまじまじ眺めると、掴んだ彼女の手の温度が思い出されるようだった。
手を貸して起き上がらせたあと、そのまま俺の手を離すのを忘れている時も、ドラルクさんから俺を庇おうと思い切り引っ張られた時も、抱え上げて走る俺に必死にしがみつくその時も、その体温は俺よりも少しだけ高く温かかったんだ。

それは弾みで押し当ててしまった唇も同じで……というところまで思い出して、ゴホンと咳払いする。
昨日初めて会った人に対して何考えてるんだ、俺は。

今日は土曜日で休日だ。
ギルドでも行って仕事の情報でも収集するか、と、両頬をペチンと手で叩いて気持ちを切り替えて立ち上がった。



「…おつかれ」とギルドのドアを開けて中に入ると、バッと集まる視線。
ロナルドやドラルクさん、ショットなどみんなが一斉にまじまじと俺を見る。

ううっ…と思わず一歩引くと、すかさず近寄ってくるロナルド。
「…で、あのあとどうなった…?」と、聞くその顔は好奇心で半笑いだ。
「どうなったって…家まで送った…」と冷や汗を垂らすと、「…で、それから?」とショットがこちらも見ずに追撃。カウンターに座る背中だけしか見えないが、殺気を感じるのはなぜだろう…。

「それで、コーヒー飲まないかって言われて、家の中に入って、簡単にキズの手当てして、俺の手当てもしてもらって…」と正直にあったことを言うと、雷に撃たれたような顔で固まるロナルドと…表情は見えないけど、たぶんショットも。

「お前、それさぁ…絶対エロイやつじゃん…」と興奮と嫉妬の混じったような複雑な表情で手をわなわな震わせるロナルド。
「なぜか傷は胸の上あたりとかでさぁ、お姉さんがシャツを恥ずかしそうにはだけちゃったりして。で、消毒してるとつい胸に手が触れて『あっ…』みたいなうぐっうわ…」
名前さんで妄想を始めるロナルドの口をふさいで、「やめろよぉぉ、普通に手当てして、コーヒーだけ飲んで帰ったから!」と反論する。
思わず想像して赤くなってしまう俺も俺だけど…!

「本当にそうなのか?キスまでしたと聞いたが…」とようやくゆっくりこちらに振り返ったショットが歯ぎしりしながらこちらを睨む。
だ、だから、事故なんだってば…!

「いや、マジな話、サテツの様子見て、一目ぼれとかしたんじゃないかって今みんなに話してたんだよな」とロナルドが頬杖をつく。
「違うよ!一目ぼれとかではないから!」と返す俺の心臓の鼓動は、スピードアップ。
…一目ぼれをしたわけではないし、いきなり好きになったわけでもない。だけど、もっと知りたいし、もう一度会いたいって思ってしまっていたから、少しだけ図星だっただけだ。

ふーん…とまだ疑いの目で見てくるロナルドたちを無視してカウンターに座ると、終始静かに俺たちの様子を見守っていたドラルクさんが、ホットミルクのカップをゴトリとテーブルに置いて口を開いた。

「まぁまぁ。実は、昨日彼女が落としていった靴と鞄の中身を拾ったので今から渡しに行くんだが、腕の人は何か伝言あるか?」と紙袋を持ち上げる。
あ、昨日俺が慌てていたせいで落としていってしまった靴か…と冷や汗がタラリ。
だけど、このお詫びもしなくては。…それに、これを口実にもう一度会えるかもだし。

「あっ…俺持ってくよ。家分かるから…」と手を出すと、引っ込められる紙袋。
「…いい。私が持っていく」とニッコリ笑って後ろ手に紙袋を隠すドラルクさんの口の隙間から、キラリと光る牙が見えて、不穏な予感。

「…俺が持ってく」と手を出すと、それを無視して「私も名前さんに会いたいからなぁ」と口を尖らせるドラルクさんに、俺も思わずむきになってしまう。
「俺が持ってくってば」と、強めに返すと、間髪入れずに「そんなに会いたいのか?」と返球されて、「会いたいよ」と反射的に飛び出した言葉に思わず慌てて口を押さえた。

おぉ〜っ!とギルドに上がる感嘆の声に、頬の温度がどんどん上がっていくのを感じて、内心はうわぁぁぁ!とパニックだ。
つい、ちょっとした本音が出てしまった…。

だけど、まるでこうなるのが予定通りだったかのようにニヤリと笑ったドラルクさんは、
「そんなに会いたかったら自分で渡すといい。今から彼女がここに来るからな」と紙袋を俺に押し付ける。
「えっ…?」とポカンとしたまま紙袋を受け取ると、「家まで渡しに行くとは言ってないからな」と口笛を吹くドラルクさん。

ほぼ同時にカラン…と鳴るのはギルドの扉の鐘。
「…失礼しまーす…」と声がして、小さく開いた扉の隙間から覗くのは確かに名前さんの顔だ。
うっ…と何故か緊張で思わず片目が涙目になり、思わずドラルクさんを振り返った俺に、
「…荷物の受け渡しだけで終わりたくなければ、デートに誘ってみるのもいいぞ」とドラルクさんの言葉がグサッと刺さる。
デ、デート…。

ギルドの中に入ってきた名前さんが、俺に気付いて「あ、サテツ君」と微笑んで、胸の前で手を挙げる。

「…さあ」と妖しげに微笑むドラルクさんに背中をそっと押されて、俺は一歩名前さんのほうに足を踏み出したのだった。

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