04

いつかはこの日が来る。
それが今日と決めた理由はなんだっただろうか。

手術後すぐに入院先を脱走し、高熱で動けないところをこいつの家に世話になってから幾月か。その間に「用事」を済ませにアイヌコタンなどへ行っては事が終わるとここに戻ってきてしまった。

だが、今回は簡単には戻れないところへ行く。そして、その後もまたさらに別のところへ。終わりが見えないこの旅には、危険も多い。遠くへ行くと言って出ていっても、死んでそれっきりということもあるだろう。

その間こいつは俺を待つのだろうか。
どんな顔をして…。

初めは何も言わず出ていくつもりだった。
身体の関係を持ってからですら、しばらくはそう思っていた。
いつから、こいつに何も言わずに出ていくことを躊躇うようになっただろう。出て行かないつもりか、出ていくと伝えたところで何を言ってほしいのか。
そんな自分の中の甘えた感情には、自分から終止符を打つべきだ。


切り出したのは朝だった。
正面から切り出せなかった俺は、水場に立って朝飯の片付けをしている名前の後ろに立ち、背中に向かって言った。

「今日、支度が出来次第ここを出ていく。いままで長らく世話になったな」

カタン、と一瞬止まる器の音。
振り返った名前は気丈で、悲しげだが笑みを浮かべている。
「そう…ですか。もう行かなきゃいけないんですね。分かってましたけど、急だと、やっぱり寂しいです」
「…いや、感謝している。飯もうまかった。回復が早かったのもお前のおかげだ」

別れだけ告げて。そう、別れだけ告げてさっさと出ていくつもりだったのに、実際名前を目の前にすると、伝えたいことがありすぎるような気がして言葉が選べない。

「私は尾形さんと居られて楽しかったです。本当に…」

そう言って俺を見る。

「だから尾形さんさえ良ければいつでもまた…」
「待つな。俺はもう戻らない…」

自分でも驚くほど冷たい声が出て、心の中でしまった、と舌を打つ。こんなときに、こんなところで、こいつの前で母親の姿がちらつくとは。待って待って待ち続けてあんな最期を遂げた母親が。
そんなことをこの女に、この俺がさせるのか?

「今までにあったことは…全て嘘ではない。でも絶対に待つな。俺のことは忘れろ」
「でもっ!今まで…!」
「聞き分けよくしろ。そのほうがいいんだ」
「分かりません!出て行くのは止めません。でも…!」

顔を赤くしてそう詰め寄る名前は今にも泣きそうな表情だ。

やめてくれ。期待をするな。いや、違う。俺に期待をさせないでくれ。
自分への怒りなのか母親か、はては父親への怒りなのか、感情が腹の底からこみ上げてくる。

「いいか?」

思わず声を荒げてこう突きつけた。

「俺は軍人と言えども今や脱走兵扱いだ。この先必要であれば時に非人道的なことだってしながら旅をして生きていく。お前には描く理想の幸せな未来があるのだろう?俺には囚われずに生きたほうがよいのではないか?お前だってそう思うだろう?」

こちらから突き放す、と見せかけて、断定せずに疑問型なのは俺のずるさなのだろうか。自分の気持ちは隠しながら、でもこの女がどう思っているのか、一応確認だけはしておきたい、なんて。

呆気にとられた表情のあと、名前は俯いてしまう。そうやって隠すのは涙なのか、怒りなのか。
ただただ俯いてじっと耐えている。

(…こいつの、こういうところが……)

この女はいつだってこうなのだ。
どんな冷たい感情も、黒い感情も、悲しみも怒りも、拒絶することなく全て自分の中に染み込ませるように受け入れて、耐える。その様子は、まるで撃たれた獣が身を隠して静かに傷が癒えるのを待っているかのように、静かだ。

…突然、すっと顔を上げた名前の瞳には、涙はない。

「…分かりました」

キッパリと、そう言った。
俺から切り出したとはいえ、今度は俺が俯いてしまう。だが感情はあくまで平坦に。顔にも出さない。早めにこの会話を忘れれば、良い思い出の一つくらいにはなるだろう。

「…そうか。これまで世話になったな。正午には経つからそれまで…」
「いえ、尾形さんの気持ちは、分かりました」

俺の言葉を遮るようにして名前が話し出す。

「分かります…けど、尾形さんの言いかただと、私が描く理想の未来を、尾形さんは作れないということですか?」

まっすぐに俺を見つめてそう問いただすので、(こいつは…)と内心チッと舌打ち。これ以上引き延ばせん。

「当たり前だ。俺は作ってやれない。さっきも言ったが俺は脱走兵扱いで追っ手もいるんだぞ。それに、いくら軍人であったとしても、父上が軍神と呼ばれる中将であっても、所詮見捨てられた妾の子だ」

ハッとした顔を見せてから、気まずそうに目を伏せる名前。俺が妾の子と告白したのは、今が初めてだったか…。

自虐心でいっぱいになりながらさらに続ける。

「…だから愛情の欠けた人間に育てられた人間は、この俺のように愛情のさらに欠けた人間に育つんだ」

一瞬静まり返る空間。

「…では、尾形さんの思う、私が描く幸せな未来って何ですか…?」
「まだ食い下がるのか?…言ってやろう。恋仲になった男と結婚して、幸せな家庭を築く。そして子を成したら生まれる前から両親ともに愛情を注いで、子供が生まれたらもっと愛情を注いで宝物のように育てるんだ。家族を作って暮ら………」

…ギョッとした。
再度顔を上げた名前の瞳には、いっぱいの涙。表面張力に耐えきれなくなった分の一滴が、頬を伝ってこぼれ落ちる。しかしその表情は涙をこらえて真っ赤になった目とは裏腹に、なぜか嬉しそうにすら見えた。

「…尾形さん、好きです…」

そう言って名前は一歩俺に近づき、ぎゅっと抱きついてくる。

(これは…どういうことなのだ。)
手のやり場もなく突っ立ったままで、不可解な女心に混乱状態な俺にさらに名前が言う。

「だって、尾形さん、私の望む未来を自分は作れないってことは、少なくとも私と結婚して子供を作ることをちゃんと想像して真剣に考えてくれたんですよね…?」

………顔に熱が思い切り集まるのを感じた。
いや違う。そういうことではない。いや、そうなのか?
いや、実際そうだが、そういうことではなく…

「…阿呆、俺の言いたいのはそこではなくて、それを俺が叶えてやれないと…」
「いいんです。尾形さん、私の本当に描く理想の未来を知りたいですか?」
「…………」
「私にとって未来は明日だけです。先のことは分からないんです。私は明日自分が幸せならそれでいいんです」

(ああ、こいつは…)

どんな生き方をしてきたのだろうか。今日を今日として生き、目が覚めて生きていれば明日になる。こいつの描く幸せはあまりに小さい。女らしい普通の願いすら持たないくらいに。

「…そして、今日と、もしかしたら来る明日に尾形さんがいてくれればもっと幸せです」

そう言って俺の胸に顔をうずめて目を閉じるので、たまらなく胸が締め付けられる。締め付けられているのは、胸の奥のほう、俺には無いはずの「欠けている」部分。そこが確かに疼いている。
これまで親からも与えられず、全く経験してこなかった知らないその感情がこれなんだと、薄々自分でも気づいていた。

こいつの描く理想の明日は、俺が。 
そして、願っても良いのであれば、俺が望む未来は、こいつと。

だが今俺が口に出して言える言葉は少ない。
それでもいいのだ。俺の約束や言葉は逆に
に名前にとって必要ないのだ。

(好きです…か…)

行き場がなかった両手で名前を抱きしめ返すと、びっくりして顔を上げた名前の額に軽く口づける。自分がどんなにやけた面をしているのか見られたくなくて、名前の頭を抱えて自分の胸に押しつけた。

「……俺と一緒に来るか?」
「えっ?!私そんな無理を言うつもりで言ったんじゃ…」
「俺がそう思ったんだ」
「だって、この家は…仕事は…」
「家は知らん。が、お前の刺繍の仕事なら旅をしながらでもできるだろう。新しい販路もできるんじゃないのか?」
「でも、足手まといになります…」
「確かにな。だからずっと一緒じゃなくていいんだ。行く先でお前はお前で拠点を作ればいいだろう。俺がそこに帰る」

名前はまた静かに泣いている。
今度の涙はきっと嬉し泣きなら良いんだが、と、押し付けられたシャツの胸が湿っていくのを感じながら頭を一層引き寄せた。

「で、着いてくるのか?」 

そうしてほしいんだ。俺が。
…返事を待つ一瞬がたまらなく長く感じる。別に結婚の許しを乞うわけではないというのに。

「はい。一緒に行きます。尾形上等兵殿」
俺の緊張とは裏腹に、名前はいたずらっぽい笑みでそう一言。全くこいつには適わない。

「よくぞ言った。名前一等卒」

照れ隠しの冗談で返した代わりに名前の手をとり顔の前に持ってきて、指先に口づけた。全ての指に順番に口づけて、手の甲へ。ひっくり返して手首へ。

「…出発は遅らせる。それまでお前を抱いてもいいか?」

コクリと涙目で頷く名前を抱き締めて、そのまま抱き上げて、今まで以上にそっと布団に下ろすと、自分の中に消えようのない火が灯るのを感じた。

*
続く


[ 13/134 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]





小説トップ
- ナノ -