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「お・は・よ・う・ございまーす……」

あえてヒソヒソと囁いた言葉だけれど、直に耳の穴に流し込むみたいに間近で発したそれは、さすがに尾形さんの睡眠を邪魔したようだ。いつも、暗い中で猫みたいに光る目がパチリと開いて、寝ぼけ眼で私の姿を捉えると、途端に不愉快そうに顔をしかめている。

「……なに」
「お・は・よ・う・ございます!」

もう一度、にこやかに朝の挨拶をする私を見てから、尾形さんが手を伸ばして枕元の自分のスマートフォンを引き寄せる。タッチした瞬間に明るくなるバックライトに眩しそうに一度瞬きをして、画面に映る時刻表示を確認してから、ジロリとこちらを睨んできた。

「……まだ0時過ぎじゃねえか」
「そうだよ」
「何が『そうだよ』だよ」

イライラしたような尾形さんの声のトーンも当たり前。最近少しだけ仕事が忙しく、お疲れだった尾形さんは、今日は珍しく早めにベッドに入ったのだった。そして、あっという間に寝落ちるまで、約5分。私が声をかけたのがその30分後。ちょうど、スヤスヤと深い眠りに入りはじめたタイミングだったのかもしれないのだから。

「なんでもないなら寝るぞ」
「なんでもなくない」
「じゃあ何だ」
「わかんない?ほら、0時5分。昨日が終わって今日になりました」
「……ああ、」

ハアーッと深いため息をついた尾形さんは、私の表情を見てすぐにこの状況を察したようだ。頭を抱えてグシャグシャと髪をいじったら、額に流れて乱れる前髪もそのままに、「1月22日……」と小さな声で呟いた。そう。尾形百之助、本日、誕生日なのだ。

「誕生日おめでとう!生誕祭やる?」
「なんだそりゃ」
「誕生日のお祭りってこと」
「いらねえよ。そんなの、何にでも『祭』って名前付けて騒ぎたいだけのやつがやるもんだろ」
「……ひねくれもの」
「なんとでも言え」

まあ、こんな反応は大体予想通り。とにかく、尾形さんは誕生日という日に意味を見いださず、世の多くの人のように喜ばないばかりか、むしろ憎んでいるような素振りも見せるのだから。そうして、毎年毎年、なるべく「誕生日なんて何でもないぜ」みたいな態度をとってスカしてみせる。今日に限って早めに寝てしまったのだって、毎年の「スカし」の一環なのはお見通しだ。

そんな風にしていたら、逆に物凄く誕生日を気にしている人みたいなのだけれど、そんなことを本人に言ったらご機嫌斜めになるのは確実なので、これまでは軽く流してきた。でも、そんな尾形百之助君とのお付き合いもかれこれウン年。そろそろ、こっちだっていつもと違うタイプのお祝いをしてみたかったりもして。

「大体、お前だってイベント事とか苦手なタイプだろうがよ」
「苦手ってわけでもない……普通かな」
「ほら見ろ。好きってわけでもないんだろ。俺だってそういうのはいいからな」
「知ってる。でも、今年はなんとなく、誕生日になったら最初に私がお祝いしたいなって思っただけ」

そう言って、目元にかかった尾形さんの前髪を指でよけてあげると、尾形さんは視線を不自然に反対側に移して黙り込む。これは、満更でもない時の癖だ。

「じゃあ、一応儀式も終わったし、もう寝る?」
「終わったのかよ。ていうか、お前とくっちゃべってたら喉乾いてきた……」
「じゃあお茶でも飲む?」

突発で始まろうとしている深夜のお茶会もなんだか可笑しいし、そのために、二人ともパジャマ姿で並んでのろのろとリビングまで行進していることにもなんだか笑えてくる。でも、今日この日に、二杯分のお茶用のお湯を沸かしているこの時間は、なんだかたまらなく愛しいような気もする。

急須に茶匙できっちり二杯の緑茶を投入。沸騰する少し前のお湯をゆっくり円く注いで、蓋を閉めたら少しだけ蒸らす。本当はもう少し温度が低いお湯のほうが美味しく甘く煎れられる。でも、家庭用の茶葉なんだから、気取らずに手を抜きながら飲むのが一番美味しいんだ。

しばらくおいたら、急須から少量ずつ均等に2つの湯呑に注いでいって、最後の一滴まで入れきるのが美味しく飲むコツ。残念ながら、都合よく茶柱なんてものは立たなかったけれど、十分に薫る濃緑のお茶、深夜バージョンの完成だ。

「はい」
「ん」
「じゃあ、乾杯」
「……うん」

湯呑をゴチンとぶつけ合ったあと、ずびび…と二人で無言でお茶をすすりながら考える。誕生日ってこんな感じなんだっけ?こういう感じでいいんだっけかな?

チラリと視線を遣って尾形さんのほうをつい気にしてしまうと、私の視線に気づいた尾形さんも神妙な表情でこちらをじっと見つめてきた。

「なんか、毎年、こうやってお前と茶しばいてそうだな」
「ええっ、お茶じゃなくて美味しいご飯とかお酒にしたい。たまにはフレンチとかも良くない?」
「言っとくが、今日はお前の誕生日じゃねえんだぞ……」

呆れ顔の尾形さんだけど、いつの間にか私にツッコミを入れながら、誕生日を楽しみ始めているのが微笑ましい。ほら、楽しもうとすれば楽しくなるのに。尾形さんの天の邪鬼。

「来年はさ、誰か呼んでパーティーとかする?」
「……お前だけでいい」

そのほうが、静かだから。なんて、小さい声で付け足したけれど、その言葉になんだか私のほうが胸がいっぱいだ。今日この日を、尾形さんが普段通りに私と一緒に迎えてくれたことに。
お誕生日おめでとうございます、尾形さん。来年も、なんでもない特別な一日を一緒に過ごせるといいな。


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