アイスブルーの君の熱

今回の任務には、思ったよりも手こずってしまった。なんてことない通常の任務のはずだったが、祓うのに予想外の時間と体力を使うこと、かれこれ2時間。呪霊自体は低〜中級のものだったが、とにかく数が多い。しかも、周りの呪霊を呼び寄せると共に、分裂して増えていく何とも面倒くさい相手だったのだ。何より、電磁波でも発生させているのかと思うほど不愉快な鳴き声がキイキイと人の集中力を奪ってくる。

そして、その間に自ら定めた労働時間が過ぎてしまい、気づいた時には恋人の名前との約束の時間30分前。もう少し余裕を持った時間設定をしていれば良かった。自信と慢心は違うのだ。これからは気をつけなくては。

だが、 時間外労働になったら後は早い。制約により底上げされた力であっという間に残りの数十体を片付けて、終わった時点で約束の時間の10分前。かなりギリギリだ。しかし、今から急いで伊地知君に拾ってもらい、少々の法律違反には目をつぶって車を飛ばしてもらえば、少しの遅刻で済みそうだ。

その場ですぐにスマートフォンを取り出して、名前に連絡をしようと画面をタップしかけて、止めておく。いくら電話先からは見えなかったとしても、こんな帳の下りた場所から返り血だらけの状態で恋人に連絡するのも、なんとなく躊躇われたからだ。先に伊地知君に連絡をし、迎えを待つ間に洗顔と着替え。少々気が引けるが、名前には車中から一報を入れることに決めた私は、迷わずに伊地知君の電話番号をタップしたのだった。



「七海さん、お待たせしました。大丈夫ですか」
「大丈夫です。こっちの服についているのは私の血じゃありませんから」
「流石です。お疲れ様でした。帰りは自宅でいいですか」
「はい。お願いします」

すぐ近くまで回してくれた車の柔らかなレザーシートにドサッと身体を預けてから、スマートフォンを取り出して、画面をタッチ。しかし、全く反応を見せないそれは、ひたすらに真っ黒な画面を見せ続けている。電源ボタンを押し直しても、電池パックを入れ直しても無反応。もちろん、充電はしっかりとしてあったのだが。

「クソッ。あの鳴き声、やっぱり何らかの電磁波か」と吐き捨ててスマートフォンをシートに投げた私に、バックミラー越しに伊地知君が焦ったような視線を送る。

「どうかしましたか?」
「……スマートフォンが壊れました。おそらく、先程の相手のせいかと」
「どこかに連絡します?高専の関係者なら僕から連絡をしておきますが」
まさか相手が自分の恋人だなんて言えるわけがない。こんなことになるのなら、まだスマートフォンが壊れていなかった段階で、先に名前に連絡を入れていれば良かった。

とはいえ、名前も普段はなかなかに忙しい会社員。私の仕事が本当は呪術師だということは知らずとも、少なくとも世間一般で言う「仕事」についての理解はあるほうだ。実際、何度か祓いの仕事のせいで約束の時間から遅れたことがあるし、逆に名前のほうが仕事の都合で遅刻してきたこともある。現在の状況を考慮すると、目算で約束の時間から20分程度の遅刻か。ギリギリ許してもらえるでしょう。それならば、どこかで電話を探すよりも直接向かってしまったほうが早い。それに、道中のどこかで何か機嫌直しの手土産でも買っていけば尚良しだ。

「……いや、連絡はいいです。それより、ちょっと寄ってほしいところがあるんですが」
「はい?了解です」
「……五条さんには黙っていますので、スピード違反でお願いします」
「はい。って、え?ええっ?!」

冷や汗を飛ばすみたいに焦る伊地知君に、アイスクリームの店の場所を指示してから、ほんの少しの時間だけでも身体を休めようと、目を閉じたのだった。



名前には合鍵を渡してあるため、既に私の部屋に来て待っているだろう。エレベーターを下りて、自宅の部屋のドアが見えると自然と歩みが早まる。着替えた服は畳んでから鞄の奥に突っ込んで隠してあって、右手にはご機嫌取りのデザートの紙袋。急いで入った玄関に、案の定、名前のパンプスが揃えて置いてある。やはり、もう来ていたようだ。

「名前、すみません、遅れて」と、言いながらリビングのドアを開けると、ソファに寝転がって、いつもみたいに雑誌を読んでいる名前が目に入る。帰ってきた私を確認したらキョトンと目を丸くしているが、その表情に怒りはない。
良かった、いつも通りだ、と思わずほっとしてしまった。さらに畳み掛けるように、「すみません。お詫びに名前が好きなアイスクリームを買ってきましたから」と笑って、紙袋をわざとらしく持ち上げる。

すると、こちらを一瞥した名前がゆっくりと起き上がり、姿勢を正す。そうして読んでいた雑誌をパタンと閉じ、それを静かにサイドテーブルの上に滑らせて置いた。

「……大人なら、連絡できるようになった時点で、ちゃんと連絡して」

冷たい声でそれだけ言った名前は、すくっと立ち上がって、こちらを振り返りもせずに寝室のほうへ歩いて行く。数秒後に、パタンと閉じる寝室のドアの隙間から、名前のコロンの香りだけがふわりと漂って、その場に残ったのだった。



……珍しく、怒っていた。

初めての事態に、しばらく固まって動けなかったが、事態を把握してからは頭をフル回転だ。しかし、まずかった。やっぱり伊地知君に携帯電話を借りて、連絡だけでも先にしていれば良かった。確かに、思い返せば、普段は約束の時間前に必ず連絡だけでも入れておく。予定外のスマートフォンの不調も影響したにせよ、どこかで甘えが出てしまったのも事実だ。

一縷の望みをかけて、アイスクリームの袋だけは持ったまま、寝室のほうに歩みを進める。こんな小細工の手土産が何か役に立つとは思いませんが、念の為。

寝室のドアをノックして、「名前、入ってもいいですか」と声をかける。返事はないが、鍵はかかっていない。拒絶されているわけでは無さそうだ。
「……入りますね」と呟いて、そっとドアを開けると、そこには、ベッドに突っ伏す名前の姿があった。

そっと近付いて、とりあえず紙袋をベッドサイドのテーブルにオン。それから、ゆっくりベッドに腰を下ろして、うつ伏せの名前の髪にそっと手を触れた。

「……ちゃんと謝りたいです。顔上げてくれませんか」
「……やだ」

心の中でため息。今回はなかなかやっかいなようだ。ここまで名前が頑なだったことはあまりない。どうやら、機嫌が良くないようだ。
「……じゃあ、そのまま聞いてください」と前置きしてから、あやすみたいに髪をすいて、背中をポンポンと撫でながら話し出した。

「すみません……本当に、仕事が片付かなくて」と切り出すと、「……仕事なのは分かってるし、気にしてない」と突っ伏したままの体勢でくぐもった声が返ってくる。会話に応じる気はあるようだ。

「じゃあ、どうして」
「とにかく、時間前に連絡だけでも欲しかった」
「……連絡を入れる前に来てしまった方が早いかと思って」
「でも、結局遅れたじゃん」
「それは……本当にすみません」

一層強く枕に顔を押し付ける名前の肩が震えている。何だか普段と違って駄々っ子みたいで戸惑ってしまうのも確かだ。どうして今日に限ってこんな風に。

「まだ怒ってますか?」と頭をひと撫でした瞬間、名前の身体がぴくりと震えて反応する。さらに次の瞬間にはガバッと起き上がった名前が、真っ赤になった目で私のほうを見つめていた。瞳は、表面張力ギリギリで耐えているかのような涙で潤んでいて、一度でも瞼を閉じればそれが溢れてしまうのを知っているのか、瞬きもせずにこちらを真っ直ぐ見据えてくる。

「……泣いてるんですか」
「泣いてない。怒ってるの……」
「……名前、今日は何か変です。本当の気持ちを話してください」
「違うの、ただ、」

俯いて、スンと鼻を鳴らした名前は座り直してから私のほうに向き合った。

「約束の時間に遅れてもいい。その日は来れなくなったっていい。でも……建人が、仕事、で何かトラブルが…………」

そこまで言ってから急に言葉を尻すぼみにさせた名前は、何かを考え込むように押し黙ってから、一呼吸し、震える声で続けた。

「……というか、交通事故とかに遭ってるんじゃないかって思っちゃったりもするから、そりゃあ、連絡が無かったら怒るよ。だから、連絡だけはしてよ」

さっきまで零れ落ちそうだった涙はどこへやったのか。少しだけ朱くした目元だけはそのままに、無理して作った拗ね顔でこちらを見上げる名前の表情に、心臓が握り潰されたみたいにきつく痛んで、言葉が出てこなかった。

貴女、私の仕事のこと、本当はどこまで知ってるんですか?

今の貴女の言葉の本当の意味に、私は気付いて良いんですか?
もしかして、いつもそんな想いを抱えながら私を待っていたんですか?私が本当に無事に仕事から帰ってくるのかどうかを。
そして、そんな貴女にとって、連絡がない一分一秒がどれほどの時間なのか。

「…なんか、吐き出したらスッキリしたかも。もう怒ってないから、ちゃんとご機嫌とって」

ニッコリと笑う名前の表情はいつも通りに戻っている。だが。だけど。

貴女は最初から怒ってなんかいないんでしょう。最初から最後まで、私のことを心配していただけなんでしょう。でも、その素直な気持ちを私にぶつけるのが、何やら良からぬ危険な仕事をしている私にとって、どれだけの意味を持ってしまうのか、貴女は知っている。だから、知らないふりをして、あえてその温かな気持ちを冷たい言葉で包むのでしょう。
お互い分かっていても、本当の気持ちを言葉にできない大人二人。なんて複雑で難しくて、それなのに、そんなことにこそ貴女の大きな愛を感じてしまう。

名前の身体を引き寄せて、これ以上無いくらいにきつく抱きしめた。

「…いくらでもご機嫌取ります。貴女のためなら」
「もう…よく言うよ」
「そりゃあ言いますよ。だって……xxxxxxx」
「……私も」

愛してるの一言を、このタイミングで貴女に捧げることを許して欲しい。たった5音に沢山の意味が乗せられていることは貴女なら気付くはずだ。
愛してます。ごめんなさい。遅れる時は必ず連絡します。でも、連絡する間もないくらいの状況のまま、帰って来れなくなってしまったらすみません。そんなことはなるべく無いように精進します。

「今夜はずっと一緒にいて」
「勿論です」
「沢山キスして」
「……いくらでも」

奪うようにして唇を重ねるとたまらない愛しさが込み上げる。沢山触れて撫でて貴女の肌も粘膜も全部溶かして、最後は繋がって、貴女の温かな中心に身体で触れて確認させてください。

寝室の片隅で溶けているアイスクリームのことは、明日の朝考えましょう。


[ 119/134 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]





小説トップ
- ナノ -