オーバーヒート翻弄ナイト

ソファに腰掛けながら、鞄をあさって何やら仕事の書類を取り出す名前を横目で観察する。今日は社外の人と打ち合わせでもあったのか、いつもより少しだけフォーマルな格好をしているようだ。白いシャツブラウスに、タイトなスカート。片手で髪を耳にかけると、サラリと揺れる髪の隙間からシンプルなイヤリングが光る。華奢な手首に付いているバングルとお揃いで、私がプレゼントしたものだ。

さて、己がプレゼントしたアクセサリーを身に付けている恋人を眺めて悦に浸っている場合ではない。私の家では、プライベートの時間に仕事をするのと仕事の話をするのは厳禁。それに、おそらく昨夜が「お預け」になったのは、どうせ今日のこの打ち合わせが原因なのだろう。このまま仕事の書類に夢中になりそうな名前から、一刻も早くそれを取り上げて、今夜に備えなくてはいけないのだ。

「こら。家では仕事厳禁。ワークライフバランスですよ」
「ちょっと読んでただけ」
「ちょっとでもダメです」

ハイハイ、と口を尖らせながらも、思った以上に素直に書類を手放した名前に、代わりにワイングラスを手渡した。

「今日は1杯くらい如何ですか」
「あれ?!そのワイン、ついに開けるの?!」
「ええ、まあ、そろそろ飲もうかなと」

名前の反応のとおり、このシチリア産ワインは高価格なワインというわけではないものの、イタリアでも最高級のシャルドネと呼ばれており、楽しみに取っておいたものだ。今日は特別な記念日というわけではないですが、なんとなくそんな気分なので。少しくらいムードも出るものでしょう、という寝室に連れ込むための小細工なのは、あえて言わずに。

オープナーを使って栓を開けて、取り出したコルクを名前のほうに向けてやると、そっと顔を近づけて香りを確かめている。

「わー葡萄の香り……!」
「そりゃそうでしょう、ワインなんですから……」

名前は、酒が特に強いわけではないし、自ら進んで飲むタイプではない。それでも、こうしてたまに飲むのは楽しいようで、夕食後の2人だけの時間にグラスを傾けることもしばしば。酒の力を借りるわけではないですが、少しだけ、今夜の理性を取り払ってくれれば私も嬉しいのですが。

グラスを上げて「乾杯」と2人で言い合ったら、ソファに並んで座って、艷めく液体を一口。

「いかがですか?」
「ん?味は南国フルーツって感じなのに、蜂蜜みたいな香り!甘くて酸っぱくて美味しい!」
「……とっても陳腐な感想ですけど、意外とテイスティングはいい線行ってるのが悔しいですね」

「建人は理屈っぽいなぁ」なんてぶつくさ言っている名前にほんの少しだけ近付いて。さりげなく肩に手を回すと、素直にコテンと頭を預けてくるのが無防備で扱いやすい。さて、録画しておいたドキュメンタリーでも流して、これから始まる2人だけの時間の前哨戦を楽しむこととしますか。



時々感想を言い合いながら、ゆっくりゆっくりグラスを空けていき、ドキュメンタリーのエンドクレジットが流れ始めた頃。名前の手が私の身体を飛び越えて、ワインボトルに伸びる。

「ああ、これ、好みでした?もう1杯飲みます?」
「ううん、そんなにいらない。あと、ちょっとだけ……」

気持ち程度の液体をグラスに注いでやると、名前はグラスを持ったまま器用にバランスを取って、ソファにコロンと横たわり始める。

「こら、行儀悪いですよ」
「今だけ!」
「全く」

ブランケットをかけてやりながら、誤って触れてしまったふりをして横腹をさらりとなでてやると、「や、くすぐったい!」と可愛い声が飛び出した。「ああ、すみません」なんて反省のかけらもない声でニッコリ謝罪したら、今度はブランケットの上からそっと身体のラインをなぞって。多少、ぴくりと身体を動かしつつも、平気なふりをして顔に出ないように耐えているところが可愛くてしょうがない。

でも、そうやって我慢できるのもあと少しなのはお見通し。そうやって、私の手のひらの上で転がされて、少しずつ、その気になってくれればいいんですが、なんて。

しばらく黙りこくってから、指先を伸ばしてグラスをサイドテーブルに置いた名前は、身体を半分起こしながら反転させて、猫か何かみたいに人の脚の間に入り込んできた。徐々に甘えモード発動ですね。ほら、あっけない。大体、こうなったらもうこっちのもの。この後やってくるであろうおねだりに応えて、身体を引き寄せてやって、こちらを窺う視線に応えて口付けを落としてやればOKだ。

「……建人」と、囁く声が聞こえる方向にはあえて視線をやらずに、「どうしました?」なんて素知らぬトーンで聞き返す。いや、もうどうしたいのかなんて分かっていますが、それでも恋人の口から聞きたいのは男の性でしょう。

「あのね」
「はい」
「あの、建人って、1人でする時、どういう風にするの?」

……予想外の言葉に思考停止。
どうして貴女のグラフはいつも予測不可能で急激な右肩上がりを見せるんでしょうか。

「……そういうプライベートなこと聞きます?普通」
「だって知りたいもん」
「別に普通です」
「その普通がどういうのか知りたいの!」

いつの間にか、向き合って私の膝の上に座っている名前の目は少しだけとろんとしていて、ワインがいい感じに効いているようだ。

「いくら恋人でもダメです。おかしいですよ、そんな事知りたいなんて」
「そうかなぁ?」
「そうです」

そんなことよりも、2人でできる楽しいことがあるでしょう、と名前の腰を引き寄せたその瞬間、胸元に沿わされる彼女の手のひらの感触に、思わず心拍数が上昇するのを感じて唾を飲む。

「……じゃあ、先に、私が1人でどうしてるか見せてあげようか?」
「…………」

……やっぱり酔っ払ってるのか?ていうか、自分から言ったくせに、何頬染めてるんですか。いや、それよりも、何か返事しなくては。何かというか「NO」だろう。そうでないと、さっきの自分の言葉と矛盾が生じてしまうのではないでしょうか。それに、名前は今おそらく酔っていて正常な意識を保てていない状態なので、彼女のためにも止めてやる必要がある。興味が無くはないといえば無くはない、というよりむしろ……

「ふふ、じゃあ、ちょっとだけだよ」

いや、今の沈黙は決して肯定の意味ではないのですが……なんて言葉すら喉の奥に引っ込んで出てこない。膝の上で熱っぽくこちらを見つめる名前から視線が外せなくなっているからだ。

「私は、1人でする時は建人のこと思い出すよ」

……初っ端からカウンターパンチを喰らったみたいで、喉が乾いてカラカラだ。自分のことを思い出して、名前が。自分で自分を。一体どうなっているのか、視線はシャツのボタンを上から外していく指先を追ってしまい、はだけたシャツの隙間からはキャミソールと、淡いブルーのランジェリーが覗く。

「目閉じて、建人のこと思い出して……。いつも、こんな風に胸触ってくれるよなぁって想像して、同じようにする……」

とろんと、まるで本当に私にそうされているように蕩けた視線でこちらを見遣る名前は、ギュッと唇を噛んで、肩に手を回してきた。タイトスカートのせいで身動きが取りづらいのか、「ジッパー下ろして…」と耳元で甘い声で懇願されては、聞かないわけにはいかないだろう。腰に回していた手で背中側にあるスカートのホックを外してジッパーを下ろしてやると、膝立ちだった体勢を崩してしがみつくように抱きついてきた。

ペタンとお尻を下ろした先に、すっかり臨戦態勢になりかけている愚息がいたせいか、一度腰を引いてしまう名前を追いかけて引き寄せる。

「……触るのは胸だけですか?こっちは?聞かせてください」

わざとぐりっと腰を押し付けて、ヒソヒソと耳元で尋問するみたいに問いかけると、背中に回される名前の指先に力がこもる。……もうこの際、私が先程言っていたことと矛盾が生じているのは忘れて欲しい。結果オーライということで。

「や、腰、当たってる」
「いいから。その先はどうするんです?」

泣きそうなくらいに潤んだ名前の目が一瞬泳いでから、一呼吸置いて官能的な唇が開く。

「ゆ、びで、下着の上から触る」
「どうやって?」
「撫でて擦るの!いつも建人もしてるじゃん!同じようにする……」
「……それから?」
「建人の名前を頭の中で呼んで、キスするところ想像して、あの、」

……それから?どうやって下着の中を慰めて、どうやって声を我慢して、最後は私のこと思い出すんですか?いつ、どのくらい、どうやって。もう前言なんて完全撤回で構わない。恋人のそんな痴態は1から100まで全部知りたい。欲しがってくれるなら全部あげたい。確かにそうだ。でも、今夜はそんな願いを本当に叶えてあげられるんだから、その代わりにもっと教えてほしいんです。

「それで……建人のこと……」

ギュッと背中に腕を回して抱きつく名前の背中を撫でて、「……もう寝室に行きますか?」と発した声が掠れてしまう。照れているみたいに私の胸に顔を埋めて返事をしない名前の髪をサラサラと弄びながら、「ん?どうします?」ともう一度確認すると。

「……ちょっと。まさか寝ました?!」

くかー…なんて音が出ていそうなくらいに、気持ちよく爆睡した名前の頭が、グラッと揺れて間抜けに天井を向く。なんて幸せそうな寝顔なんでしょう。いや、そうではなく。

「どうしろって言うんですか。私」と呆然と呟いてみても、当然返事など返ってくるわけもなく。「今なら教えてあげますよ。どうやって1人でするのか」と煽ってみても、返ってくるのは寝息のみ。二晩目のお預けが確定したというわけですか。

サイドテーブルに手を伸ばして、グラスに目一杯、上等なワインを注いでから、やけくそみたいにガブッと飲み込んだ。不思議とさっきと比べて苦いような。今夜くらい、こんな飲み方は許されてもいいですよね。


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