火加減にはご注意を

【お疲れ様。もう仕事終わった?】
【やっと終わりました】
【今晩、そっちに行っていい?】
【19時半には帰ります。合鍵で入っていてください】
【了解。夕飯、何か食べたいものある?】

テンポ良く進んでいたメッセージのやり取りの後、しばらく間を置いて突然着信音を立てたスマートフォンに面食らうと、相手は建人だった。

「も、もしもし?」
「……鍋が食べたいです」

何とかその言葉だけ絞り出したみたいな建人の声は、かなり疲れ果てた様子だった。



それにしても、出汁用の昆布を普通に家に置いているのが、さすが七海建人といった感じだ。厚めのそれをキッチン用のハサミで使う分だけ切り分けて、1時間ほど前から水と一緒に土鍋に入れておいてある。そろそろ出汁が出ている頃だろう。家に来るまでに途中のスーパーで買ってきた材料は、切り分けて下ごしらえしてキッチン台に並べて、あとは鍋に放り込むだけ。準備は万端だ。ほら、タイミング良く、玄関のドアが開く音だってする。

「おかえり!」
「ただいま……」

建人は、帰ってくるなりネクタイを緩めてソファにどかっと腰を下ろしてしまった。そして、深いため息をつきながら、「すみません、突然リクエストして」とため息混じりに吐き出す。相当お疲れだ。

「お疲れ様。けど、どんな鍋がいいか言わなかったから、私が食べたいものにしちゃったよ」
「構いません。何故か、無性に温かいものが食べたくなって」

確かに、比較的温かかったここ数日とはうってかわって冷え込みの厳しい今日の夜に、鍋はぴったりだ。私も、同じ気分だったのでちょうど良い。しかし、それにしても、建人はいつもと様子が違うようだ。最近、仕事が忙しいのは知っていたけど、それ以上にやっかいな事でもあったのだろうか。

「もう準備できてるから、カセットコンロに火つけちゃうよ。着替えるならその間に………建人、大丈夫?」
「ああ、すみません。全く、本当に五条さんからの仕事はやっかいで」
「五条さん?」
「……貴女は知らなくていい人です」

自分から喋ったくせに途端に手のひらを返した建人は、ネクタイだけ取り払ってソファに引っ掛けてから、のそのそとテーブルのほうへやってくる。眉間に皺が寄るくらいに険しい表情だったけれど、ダイニングの椅子に座って鍋の中を覗き込んだら、今度は一気に目を輝かせた。

「牡蠣ですか!美味しそうですね」
「豚バラとセリと油揚げも入れるよ」
「セリ?珍しい組み合わせですね。味付けはなんですか?」

待ってましたとばかりにフフンと鼻を鳴らした私は、「じゃじゃーん!」と自ら効果音をつけて、小瓶を建人の目の前に突きつけた。

「……しょっつる?」
「知ってる?」
「もちろんです」

しょっつるは、魚醤の一種。これを鍋の中にふた回し程入れることで、牡蠣の海鮮の旨みがもっと深まって、野性味溢れるセリの風味も引き立つのだ。これは、私が学生時代に、秋田出身のゼミの教授が、よく作ってくれていたもの。おじいちゃん教授だった彼の退官間際のパーティーでもこれを出したくらいの思い出の味だった。
とにかく美味しくて簡単だし、何よりも、「この味を覚えて、自分でも作ってなぁ」という恩師からの教えを守って、たまに一人で作っているのだ。そして、今日は恋人に初めてお披露目する日というわけだ。

「しょっつるって、貴女、そちらの出身でしたっけ?」
「ううん、違うけど、そっち出身の人に教えてもらったの」
「……なるほど」
「この味、覚えててなって言われてたから、こうやってたまに作るんだ」
「……」

フツフツと沸いてきた鍋の火加減を調整しながら話す私の表情を伺い見る建人の表情は、ワクワクしている私と違ってなんだか不穏だ。なんとなく、イライラしているような、怒っているような。

その数秒後に、「……それって、男ですか?」と、切り出された声のトーンはいつも通り。だけど、驚いて見遣った建人の表情が、小学生男子ですか?という程の拗ね顔だったのでびっくりしてしまった。なるほど。疲労が蓄積するとこうなるタイプなわけですか。

「……お、とこ。といえば。男」
「ふむ…」

……どうしよう。なんだかとても七海建人が面白い。
本人には申し訳ないけれど、これは彼が心身ともに健康な時には見られない様子だ。なんて言ったって、冷静沈着な男。いくら内に秘めている熱いものがあったとしても、それをなかなか外には分かりやすく示してくれないのだから。

「いますよね。そういう男」
「どういう男?あ、もう火通ったみたいだよ」
「……自分の痕跡を残そうとする男って意味です。大人気ないというか、なんというか」
「よそうから器取って。牡蠣もう食べたほうがいいかな。縮んじゃうよね」
「他の男に牽制でもするつもりなんでしょう。ナメやがって。まぁ、でも結局、貴女の隣に今いるのは俺ですし」
「俺だしね〜…。セリが煮えてるね!いい感じ!はい、取ってあげる」
「……ありがとう。いや、でも貴女も貴女ですよ。どのくらい付き合ってたんですか?どういう男なんです?年上ですか?」
「んー……2年かな。厳しかったけど、優しく色々教えてくれる……みたいな。年は全然上だよ。はい、豚肉もね」
「いただきます。熱ッ………ヘェ、年上。でも、年上ぶって、お前に人生教えてやる、みたいな男、いますよね。でも貴女は別にそいつの生徒でもなんでもないですし、何かを教わる義理なんてないですから」

……もう限界、って単語はさっきから頭の周りをグルグル回っていたけど、本当の本当にもう限界だ。主に表情筋のほうが。でも、一番面白いネタばらしこそ、普段の七海建人のように冷静沈着に。頑張れ、私。

「教わる義理っていうか義務でしょ。だって大学の時の指導教授だもん」

キマった。キマりまくったわよ。さて、どう出る七海建人。
ポーカーフェイスを装いながらも、興味津々にこの後の一言を待つ私。しばらく固まって何かを考え込む建人。いつもより脳内処理が遅れているのは、やっぱり疲れているからなのかな。そして、脳内処理が進むこと、約10秒。

「……海の牡蠣と野のセリと、しょっつるがまとめてくれて深いですね。美味しいです」

……こんな流れからの、現実逃避の第一声がこれだとしたら、もう笑うしかないでしょう。俯いて肩をブルブル震わせて笑う私を建人がジットリ睨んでいるのが見なくても分かる。

「……ちょっと笑いすぎじゃないですか?」
「あはは、は、はぁ……苦しい。だって、あんなに嫉妬してたのに、無かったフリして急に食レポするんだもん」

「食レポって言わないでくれません?」とむっとしながらも、本気で照れているのか若干を目尻を赤くしている建人がなんだかとても可愛く思えてきてしまう。それに、むっつりしながらも、パクパクと鍋を食べ進めているのがなんだか嬉しい。美味しくできたのかな。それなら嬉しい。だって、先生だって、大切な人とこれを食べて欲しかったのだろうから。

「嫉妬くらいみんなするんだから、そんなに誤魔化さなくたっていいじゃん」
「嫉妬じゃないです」
「ええ?じゃあ何よ」
「……ヤキモチです」

……同じですよね?七海建人さん…?
照れ隠しみたいに牡蠣と豚バラを一気に一口でバクッと口に入れた建人が、ジトッとこちらを睨んでくるのが余計に面白い。でも、悪くない気分。夕飯も美味しく頂けそうだ。
カセットコンロの火を少しだけ弱めてから、やっと私も思い出の鍋の味を楽しんだのだった。



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