余熱でしっかり温めて

冷蔵庫から卵を2つ取り出して、ボウル代わりのスープカップに割り入れていく。艶やかな濃黄色の黄身を菜箸でつついて崩そうとして、ふと、止めておいた。
昨日の晩に買っておいたデニッシュ・ペストリーは、かぼちゃのペーストが中に入っている少し甘いもの。ハロウィン向けだか何だか知らないが、端にオバケの白い砂糖飾りが付いている。
「見えない人」には、呪いもこんな風に可愛らしく見えるのかもしれないと思うとうんざりするが、味は良いので許すことにする。
このデニッシュは少しだけ温めて、コーヒーも十分に熱々に。そうして、無駄のない工程をこなしているうちに、寝室の扉が開くのだ。

「おはよ、寝過ぎちゃった……」
「いえ。おはようございます」

パジャマの上にローブを羽織った名前は、「寒い」と小さくぼやいて、ローブの左右をギュッと合わせながらモゾモゾとキッチンまで近づいてきた。

「スクランブルエッグと目玉焼き、どちらにしますか?」
「うーん……目玉焼き」
「了解」

やはり予想が当たった。先程、卵を溶かなくて正解だった。なんてことない予想だが、元予想屋としては何となく小さな達成感だ。単なる勘ではない。日々の観察と情報収集による、データの積み重ねのおかげであったりもする。

「朝食作ってくれてるの?」と私の手元を覗き込む名前に「構いませんよ。いつものことです」とニッコリ返事すると、むっと口を尖らせた名前に「朝が弱くて悪うございましたね」と尻をつねられる。少しからかっただけなのだが、全く割に合わない。

微かにひりつく尻は気にせずに、自分のマグカップにコーヒーを注ぐ。「先にコーヒー頂きますよ。この後目玉焼きを焼くので、その前に顔でも洗ってきてください」と提案するも、「は〜い…」と生返事しながらノロノロと洗面所に向かう彼女の後ろ姿はまだ寝坊助状態だ。

起き抜けで空っぽの胃に一口落としたカフェインで頭を覚醒させると、昨夜のことが鮮明に反芻されるようだった。もう何度目かなんて分からない情事の温度も、名前の声も、触れた肌の感触も。先程私の手元を覗き込んだ時に、胸元にチラリと覗いた薄い朱の痕も、昨夜の睦言の確かな証拠なのに、いい大人二人、こうして翌朝になればお互いその事についてなんて触れず、余韻も引きずらずに他愛ない会話をしている。それが時々、面映ゆいような気もする。そんな感情も悪くないのだが。

会社員時代にふとした事から知り合った名前には呪力は無く、所謂「見えない一般人」に属す。
そのため、私の現在の仕事についても「同業他社に転職した」としか話していない。呪術師も労働も等しくクソである点において、これは嘘ではないということにする。
別に隠し通したいわけでもないが、彼女も何も聞かないので、何も言っていない。だが、流石に会社員時代の仕事とは何かが違うことは感じとっているようだ。

それに、これは時間外労働になりそうだという日、つまり、厄介で危険な案件がある日はいつも、朝が弱い名前が私より先に起き出して、家を出ているのだ。
最初に、情事の翌朝にそんなことをされた朝は、何かが原因で怒らせて出て行かれたのかと流石に私も血の気が引いた。慌ててすぐに電話を掛けたのだが、(なんとなく、そのほうがいい気がしたから)という呑気な答えが返ってきて、ホッとしたのと同時に、じわっと嫌な寒気も襲ってきたのだった。

呪術師として、人に命を賭けることを強いる場合もあるということは、自分の命もまた然り。そう理解してはいつつも、隣で眠る彼女の頬や髪を撫でながら、この温かい温度から抜け出してまで任務に赴き難い気持ちになりかけた夜も、確かに、何度かは。

その感情がいかに普段はコントロールされていたとしても、言い換えれば恐怖なのは事実だろう。名前を置いて仕事に行くことへの恐怖。仮に、名前が何らかの被害に合うことへの恐怖。そして、その感情こそが仕事の質を低下させかねないということを、自分でもわかっている。
薄々と、彼女が私からそんなことを感じ取っており、そうさせないためにあえて一時的に距離を置いているのかもしれないと思うと、未だ半人前の若造のような自分に複雑な感情になるのだ。

そんな事を考えているうちに、名前がキッチンに戻ってくる。顔を洗ってスッキリすると、急にやる気を出し始めるのが彼女の行動パターンだ。

テキパキと目玉焼き用の皿を出し、フライパンを火にかけ始めたところで、「あれ?!バターは?!」と急ブレーキ。間髪入れずに、用意しておいたバターを渡すと、(やるわね!)とでも言うかのような顔で強く頷くので、仕方なしに、ここからの指揮権は移管してやるのだ。

「建人、焼き加減は?」
「そうですね、今日は8割くらいの半熟でお願いします」
「了解」

……と、毎回聞いてもらえるが、その日の希望を指定しても、大抵、毎回同じ五割半熟、つまり、普通の半熟の仕上がりで食卓に出てくることには触れないでおく。水加減やら火加減やら焼き時間やら、何となく工夫して変えてみては満足気な彼女を見守るのは、なかなか悪くないからだ。いや、むしろ逆に、あれだけ色々工程を変えても、必ず同じ仕上がりになるのは、もはや才能ではないのかと考えたりもするが。

「そろそろOKかな!完成!」
「あァ、これは美味しそうだ」
「盛り付けましょう!」


「いただきます」の直後に、彼女が真っ先にコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばす。一口飲んでから目を閉じて、「美味しい、目が覚めた」と笑うのも、私がそれに「やっとですか」と返すのも、最早いつものルーティーンだ。

そう。貴女がいるこんな朝のひとときは、私にとっては既に日常なんです。こんな朝を過ごして、仕事に行って、きっちり定時で終わらせて、また貴女が待つ家に帰る。このルーティーンをきちんとこなしていくほうが、仕事の精度も上がるというものです。だから、もし、次の仕事が入ったら、貴女に「行ってきます」を言おうかと考えています。いいでしょうか。

「んん?目玉焼きの黄身、半分くらい固まってる?これじゃ八割半熟じゃないかな……?」
「……コーヒーを飲んでいる間に熱が通ってしまったのかもしれないですね」
「そっかぁ。じゃあ建人も早く食べたほうがいいんじゃない?」
「そうですね」

慌てる彼女に急かされて、ナイフを入れた目玉焼きを、フォークで持ち上げて一口。美味しい。さて、本日も、いつものように完璧な半熟の目玉焼きが出来上がったようだ。



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