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季節は秋から冬に移り、部屋の一角には、去年のクリスマスに買ったキャンドルが灯っている。ちょっと気が早いけど、ハロウィンに参加しづらい大人の社会人にとっては、イベントといえばクリスマスくらい。今か今かとハロウィンシーズンが終わるのを待っていて、暦が11月に変わったのと同時に、ここぞとばかりにキャンドルを灯したのだ。

暖かなリビング。お風呂上がり。でも、肩にかけたタオルに、洗いざらしの髪からポタポタと冷たい滴が落ちていく。このまま、こうしてラグの上に座り込んでいても髪は一向に乾かないというのは自分でも分かっている。

もうパジャマに着替えているし、暖房で温まったこの部屋で、後ろのソファに倒れ込んで、いっそのことそのまま瞼も閉じてしまいたいと切に願うけれど、大枚はたいて購入したお気に入りのソファを濡らすのは御免だ。だから、妙に背筋を伸ばして、ただただ座っているのだ。

先週から、繁忙期を迎えた仕事のせいで、ずっと残業続き。新人の頃は翌朝には回復していた身体も、今はそんなことは無く、毎日毎日少しだけ残るお釣りみたいな疲れが蓄積して、金曜日の夜はもう放心状態だ。髪を乾かす気力もないくらいに。

「…まだそんな格好してるんですか。風邪ひきますよ」

呆れた声がするほうを振り返る。私と同じく肩にタオルをかけた、お風呂上がりの恋人、宇佐美くんだ。週末はこうして私の家に泊まりに来るのが恒例になっているのだ。

「あーあ、宇佐美くんは坊主だからいいよね」
「なんの事ですか、意味が分からない…」

眉間に皺を寄せながらも、ソファにドカッと腰を下ろした宇佐美くんは、そのまま私の肩にかかったタオルを手に取って、それでポンポンと優しく髪を拭いてくれた。

「早く髪を乾かしてこないと、芯から冷えちゃいますよ」
「…だって、めんどくさいんだもん」
「またそんなこと言って」
「宇佐美くんが乾かして。お願い」

ソファに座った宇佐美くんの脚の間にすっぽり挟まって、彼のスウェットが濡れるのなんて構わずに、甘えるように頭からもたれ掛かる。別に、ちょっとくらい私のほうが年上だからって、甘えちゃいけない決まりなんてないでしょう。私だって滅多にこんなことはしないし、宇佐美くんだって年下の恋人らしくなく、全然甘えてなんてこないんだから、たまにはこういう甘ったるい雰囲気もいいんじゃないかな。

「あッ、冷たッ!ちょっと!スウェットのお腹のところ濡れちゃったじゃないですかッ」
「…じゃあ髪乾かして」
「じゃあって……全く……貴女のせいでまた着替えないと…」

ブツブツ文句を言いながら立ち上がってリビングを出ていった宇佐美くんは、数分後に、着替えて再登場。しかも、その片手にドライヤー、もう片手には私が普段使っているヘアオイルを持って現れたのだった。

「加水分解コラーゲン……成分はなかなか良さそうですね。貴女、ゆるくてもパーマをかけているから、髪もしっかり保湿したほうがいいですよ」

ヘアオイルの容器の裏の、何やら難しい成分名を読み上げた宇佐美くんは、容器をシャカシャカ振りながら、「ほら、乾かして欲しいならもう少しこっち来てください。コードが届かない」とラグの端っこを顎で指し示す。

「え?ほんとに乾かしてくれるの?」
「貴女が言ったんでしょう。ほら、ドライヤーちょっと持っててください」

ラグの端っこに体育座りした私の後ろで、宇佐美くんはまた容器の裏の使用方法欄を眺めているので、手持ち無沙汰な私は先にドライヤーのスイッチを入れて、ターボ、オン。

ブォォと大きめの音が響くのと同時に、「ちょ、こらッ、大雑把な人だッ」と慌てた宇佐美くんがドライヤーを私から取り上げてスイッチをオフ。

「……いつもこんな風に適当にケアしてるんですか?」
「……」
「乾きゃいいってもんじゃないんです、全く」

そうぼやきながら、手櫛で私の髪をサッと整えた宇佐美くんは、ヘアオイルの容器からワンプッシュだけオイルを手のひらに取り、もう片方の手のひらを合わせて擦ってじっと温める。そうしてしばらくしたら、手のひら全体にそれを広げていって、指の隙間まで満遍なく塗りこめる。宇佐美くんの体温で温められたからか、いつもよりも官能的なジャスミンの香りが、ふわりと辺りに漂った。

後ろから髪をまとめるように捉えられて、全体をひと撫でしたら、今度は毛束にオイルを揉み込みながら中間から毛先まで。梳くようにして流れを出して、表面のほうにはツヤを出したら、もう半プッシュだけ取ったオイルを内側の髪にさらに揉みこませる。

「女性って、意外とこの辺の髪が痛むんですよね。ほら、鞄を肩にかけたりする時に、ここの髪が巻き込まれて痛むんですよ」と解説しながら、指先に最後まで残った分のオイルを少しだけ前髪に。

「あまり頭皮に近いところにつけると、ベタつきますからね」

弱風でスイッチが入れられたドライヤーから、次第に生温い温風が吹き出してくる。まずは頭皮を乾かすようにゆっくりとドライヤーが左右に振られたら、前髪は少しだけ横に流すようにして乾かして。そこからは、濡れて自然にウェーブしている髪のカールを保つように、ゆっくりと、丁寧に、時には髪の流れを整え直しながら乾かしていく気の遠くなる作業だ。

「こうやって丁寧に乾かせば、カールが緩まないんです。貴女、いつもパーマが落ちる落ちる言ってましたけど、あんな爆風で雑に乾かしてりゃ、そうなりますよ」
「はあ……なんかこれ、疲れる」
「自分で手動かしてないのによく言いますよ。というか、このヘアオイルいいですね。ベタつかないのにツヤが出る」
「……でもさぁ、なんで宇佐美くんは毛がないのにそんなこと詳しいの。不思議だな」

「毛がないんじゃなくて坊主なだけですッ」と怒ってお腹を小さくつねってくる宇佐美くんをチラリと振り返って無言で見上げると、その表情だけで、この年下の恋人は全てを察したようだった。

「……ああ、なるほど。もしかして、昔の女に教わったんじゃないか、とか考えてます?」
「別に。やけに詳しいなって思っただけ」
「あはッ、やっぱり嫉妬してるんですね?可愛いです。もう一つくらいなら、貴女のこんなワガママを聞いてあげてもいいような気がしてきました」

…なんかむかつく。何が嫉妬してるんですね?よ。だって、こんなこと、短髪坊主の一般男性が知ってるわけないんだし、絶対に女の影響だし。その人にも、こうやって髪を乾かしたりしてあげてたのかって考えると、私だって大人気ない感情に襲われたりするのだ。

「そんなこと私に言っていいの?どんなお願いされても知らないから」
「いいですよ。ほら、何でも僕にして欲しいこと言ってみてください。愛しい貴女のためなら、どんなことだって」
「いと…べ、つに、…そんなの、冗談だし、もうお願いなんてないもん」
「あはッ。ほら、年上ぶってみせるけど、からかわれるとすぐにそうやって照れる」

熱くなった顔を見られたくないのは最後のプライドだ。タオルで髪を押さえるふりをして顔を隠そうとするけれど、そんなものはあっという間に取り払われてしまって、代わりに頬に口付けがひとつ。するすると肌をなぞるようにしてスライドしていった唇が、耳元に辿り着いたら、直接耳の奥に流し込まれるみたいにして密やかな言葉が落ちてきた。

「女きょうだいの中で育ったから詳しいんですよ。安心しました?」
「…ウン」

私の返事を聞いて、逆に宇佐美くんが安心したかのように一瞬力が抜けて、次の瞬間にはぎゅうっと後ろから抱きしめられる。喜んじゃって。嫉妬されて嬉しいなんて、自分だってガキっぽいクセに。

くるりと身体を反転させて向き直って、「キスして」と二つ目のおねだりをすると、ニヤリと笑った宇佐美くんが、私の顎を持ち上げて、口付けを落とす。表面の温度を確かめるくらいの、軽い口付けだ。

「…次のお願いは?」
「……もっとちゃんとキスして」
「了解」

宇佐美くんの唇は冷たいのに、舌はびっくりするくらい、熱い。蛇みたくチロチロと動く舌先が歯列を割って入り込んできて、私の舌を絡めとる。吸って、合わせて、好き放題に口内を堪能したら、息継ぎの合間に「じゃあ、次は?」という言葉が至近距離で囁かれる。

聞いておきながら、答えさせないみたいに再び押し付けられる唇のそのまた喉の奥に、宇佐美くんだけに聞こえる声で「×××××」と囁いた。

「…ッ」とため息みたいに吐き出された吐息とともにぎゅっと身体が引き寄せられて、回される腕に力がこもる。それに任せて自分の身体の力は抜いて、全てを宇佐美くんに委ねる準備をして目を閉じた私の頭上から、今度は「じゃあ、こうしましょう」と楽しそうな声が降ってきた。

「今夜は貴女がお願いすることは何でも聞いてあげます。でも、逆に貴女からお願いされないことは絶対に僕からはしません」
「ん?…どゆこと?」
「つまり、貴方が言葉にして僕に懇願しないと何も進まないってことです。はい、始めますよ。3、2、…
「え?やだ、なんか違う!」
「1。はい、スタート」

子供を抱っこするみたいに前から抱えあげられたら、連れていかれる先はもう分かっている。

こうして私は、よくもまあ、あれだけ丁寧に自分で手入れした恋人の髪を、そのすぐ後にまた自分の手で乱せるものだ、と宇佐美くんの複雑さを思い知ったのでした。


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