或る夏の日の出来事

※恐ろしく長い
※微グロ、微エロ注意
※銅橋家族、親戚を捏造
※そして色々浅い知識
※何でも許せる方はどうぞ










こーいうのを、破壊衝動って言うんだろうか。

田舎の婆ちゃん家の居間に置いてあるマッサージチェアに座る女の顔を至近距離で睨みながら、思う。内側暴くことになんか興味無ぇ。こんな舌で舌を探るようなもどかしい感触よりも、例えば塞いでる唇を噛み千切って髪なんて遠慮なく全部引き抜いて、鼻も目も、耳も、食い荒らして凹凸亡くしたまん丸な頭にてっぺんから噛り付いて、噴き出す脳漿を啜る感覚の方が、俺は知りたい。どうしちまったんだ、俺は。こんな細っこい真っ白な棒切れみたいな腕と脚に、欲情してんのか。この衝動が、欲の正体とでも言うのか。

だとしたら俺は、とんでもない変態だ。





「今年のお盆は、正清も来るのよ。お墓参り」


うげぇと声を漏らしたいのを堪えて、応とだけ返事した。田舎は、苦手だ。車に何時間も揺られて、自転車もヘッタクレも無い時間を過ごさせられて、挙句手伝いだなんだと駆り出されて望まない汗をかく。それでも強く反発できないのは、普段好き勝手させてもらってるって自覚が多少なりあるのと、電話の向こう側で俺の来訪を、華奢な孫娘と間違えてんのかってくらい純粋に楽しみにしている婆ちゃんの声が、心の良の部分を押して広げて浸透させているから。結局何か愚痴を漏らすこともせず自転車をトランクに積むことも遠慮して、車の中での数時間の大体を腕を組んで過ごした。

山の中に拵えたトンネルをいくつも抜けて、都会みたいに保水処理なんてされてない真っ黒なアスファルトの車道を通り過ぎた先にある坂道の脇にいくつも並んだうちの一つが、母方の実家だった。満足にケータイの電波も入らないようなド田舎。一々土地が広くて、そのクセ屋根の上の空はよく見える。家が上に高くないのも田舎ならではの光景なのだろうか。


「よく来たねえ、正清」


皺がいくつも刻まれた顔をもっとくしゃくしゃにして、頭いくつ分も小さい婆ちゃんが嬉しそうに声を上げた。よく来たよく来た、って何遍も繰り返されて、その度にウス、と曖昧にしか返事できない。無償で歓迎されることには、慣れていない。ギワクとかキョーガクとか、テキシとか。そんな殺伐な世界にいんだよって言ったらこの婆ちゃんはどんな顔するんだろうか。


「大きくなったねえ正清君」


テーブルに並ぶ並ぶ、婆ちゃんが作った料理と、途中寄ったデパートで買っていたいくつもの惣菜。せめて美味い飯くらいと期待して婆ちゃんの作った茄子と豚肉の炒め物がこんもりと盛られた山に穴を開けた直後。俺に声を掛けたのは母ちゃんの弟さん、の嫁さん。数年前会った時はいなかった小さい赤ん坊を揺らしながら笑いかけられる。


「あ、ハイ」
「しかもすごいムキムキになっててびっくりした!今、何年生?」
「えと、高一、す」
「え〜っ高一でもうそんなに大っきくなっちゃうの!?あっという間だねぇ!」
「部活は、何を?」
「チャリ、えーっと、ロードレースしてます」
「そうなんだ!すっごぉーい!」
「もーホントすごいよ、掛かるお金が。ね、正清」


弟さん夫婦の質問攻めと、婆ちゃんのすごいすごいの連呼と、極め付けはここぞとばかり飛んでくる母ちゃんの嫌味だ。この時間ばっかりはいつまでも慣れない。もともと喋りたがりじゃないし、部活だって良い思いをたくさんしてるわけじゃないから放っといてくれよとも思う。できるだけ当たり障りのないこと、質問に対する最小限の答えだけでこういう時はやり過ごす。それだけで満足してくれるのは幸いか。どうにか話題が逸れてくれねえかと、山に穴を開ける作業を続ける。飯は美味い。


「そういえばなまえちゃん遅いね。そろそろ着くはずなんだけど」
「えっなまえちゃん?」


わあ、と母親の顔が綻ぶ。その場の話題はあっという間に掻っ攫われ、助かったと思う反面今度は取り残されて少し不満が残る。俺だけ知らない「なまえちゃん」は、どうやら俺から一番遠い席に座る予定の人間らしい。ぽつんと空席に置かれた箸と取り皿の意味を漸く悟った。


「心配だわ、昔っから色が白くてほっそりした子だったしね。うちのと違って」


オイ、そりゃあんまりな扱いの差じゃねえか。


「ちょっと電話してみようかね…」


婆ちゃんが椅子を引いて立ち上がったその時。
敷地の砂利を踏む音が聞こえて、俺は思わず顔を上げた。


「あ、」


縁側を外から隠すように垂れた簾の向こうに、白く浮かぶ女の影。
つばの広い帽子に陰った瞳と、一瞬視線がかち合う。
びりびりというか、ちりちりと焦げるような、妙な感覚が、頭の隅から徐々に指先まで広がっていく。


「ごめんください」


その声を聞いた瞬間、その刺激は鳥肌に様変わりして、一気に背中の方へ突き抜けた。


「なまえちゃん!待ってたよぉ〜」
「遅かったねえ、大丈夫やった?電車遅れたの?」
「心配したんだから〜もしかしたら攫われたのかって!」


バタバタと玄関に駆けた俺の母ちゃんと婆ちゃんに同時に話しかけられながらも、なまえちゃん、の声はその一つ一つに丁寧に答えていく。お久しぶりです叔母さん、すみません途中ちょっと迷っちゃって、ふふ、まさか、そんな。騒ぎ立てている二人の声に遮られているはずのそれは、風のように確かに、それでいてどこか温く耳に伝う。不思議とよく通る声というわけでは、ないのに。テレビの音にも蝉の声にも負ける音量は、それでいてなぜかそれらよりもはっきり脳の皺に吸い込まれていく。何かに直接訴えかけるような声質だったが、それが何かは今はわからなかった。


「とりあえずまずは、食べよ!ごめんね先に頂いちゃってるけど。こっち」
「こちらこそすみません、予定より遅れてしまって」


縁側に面したこの部屋は、もちろん玄関からも近い。俺が何か心の準備をする前に、さっきの白い影はくっきりと見える女の形でそこに現れた。黒く真っ直ぐ腰に落ちる髪、白いブラウスに緑の花模様をあしらった白いロングスカートと、驚くほど日に焼けていない白い腕と脚。さっきまで瞳に影を作っていた帽子と何が入るのか分かったもんじゃない小っこい鞄を携えて、柔らかく女はこちらに笑いかける。


「こんにちは」


急にひどく痛む心臓をどうにかしようとして、必死に空いた左手で胸を押さえつけた。


「………あ、」
「さあさ座ってなまえちゃん!食べよ食べよ」
「久しぶりなまえちゃん!いや〜しばらく見ないうちにまた大人っぽくなって…」
「料理、まだあるから遠慮しないでね」
「あ〜良かった良かった、無事来てくれて」


何だ、今の。ちょっとヤバかった。
なまえちゃん、は背中を押されるままに俺から一番遠い席に座って、婆ちゃんが煮物やら唐揚げやら漬物やらを取り分けた取り皿を、有り難そうに受け取った。きちんと手を合わせて、頂きます、と言ってから、箸で小さく切り分けた里芋をその小さな口にそっと差し込んで、咀嚼する姿の、なんて


「正清!ボーッとしてないで、お茶取ってお茶!なまえちゃんに注いだげて」
「あ、あ?」


すぐさま思考をシャットダウンして視線を母親に滑らせる。なんでよりによってそんなこと俺に頼むんだよ、なんて長い台詞を吐くより反射的にペットボトルを取る方が早かった。ペットボトルの近くに座っていたもう一人が赤ん坊を抱いた母ちゃんの弟さんの嫁さん、てことで両手が塞がっているから仕方ないとはいえ、今の俺には大役すぎる。明らかに戸惑っていると、申し訳なさそうに微笑むその人が、遠慮勝ちに、それでもちゃっかりと此方に向かってグラスを差し出している。それに添えられた指すら白くて、やにわに仰天した。


「ごめんね、お願いしますまさきよ君」


まさきよ、まさきよ。…俺か、俺のことか。そんな澄んだ響きで呼ばれたことのない名前に酷く違和感を覚えてしまって、碌に返事もできないまま薄緑の液体をどくどくと注ぐ。しかしながら、清く正しく、と書く自分の字が初めてきちんと真っ当な意味を持って世に放り出されたような気がするのも事実のうちだった。


「あんたねー、もうちょっと愛想良く出来ないわけ?…ごめんねなまえちゃん、これがうちの暴れん坊将軍正清です」
「はあ?何だよソレ、」
「こんにちは、正清くん。なまえです、初めまして」
「………ドモ」


かつて親からこんなぞんざいな紹介をされたことがあったろうか、否、断じて無い。何もこんな時に、という羞恥は、別の意味の恥ずかしさに塗り替えられて、やはり俺を黙らせてしまった。急にそんな紹介しかされないような自分が恥ずかしくなって、ただでさえデカい身体を筋肉で膨れ上がらせた図体が、ペダルを漕ぐ力を生むのに必要なはずの太い足が、今だけは恨めしい。ごろごろ転がる石や鉄屑をありったけ積み上げて接着剤で雑多に固めてできたような俺と、薄い、指先で触ってすぐ割れるプレパラートみたいなガラスを繊細に組み合わせて、ちょっとの風で全部吹き飛ぶようななまえさんとでは、自身を構成する爪先から髪の毛の先まで違うものでできてるみてえだ。自分の指が当たり前に太いことが、今は一番の疑問でしかなかった。

何も喋らず黙々と箸を進める俺を、母ちゃんが好き放題紹介するのをなまえさんは一々感嘆して聞いていた。よく飯を食う、物を壊す、口が悪い、身体がデカいせいでテレビが隠れる、なんて、そんな余計なことまで言わなくて良いし一々驚いてもらわなくて結構だ。場の空気を悪くしない笑い声が聞こえる度苦痛で、早くその場から離れてやりたかったけれど、隠れざる才能と言わんばかりに発揮される母ちゃんの話術によって引き出されたなまえさんの情報は、メンタルを引き換えにしても頂いておく価値があるように思えた。母ちゃんのお姉さんの娘らしく、俺の従姉に当たるなまえさんは静岡の大学に通う一回生であることとか、文学部の日本文学専攻で、普段は一人暮らしの家か図書館で本を読んでばかりだとか、部活には入っていないから授業が終わればすぐ家に帰るんだ、とか。なるほどそれでそんなに色が白いのね、という言葉には心の中で同意したが、そこに続く、うちのは暇があったら自転車乗ってるから真っ黒のムキムキ、という情報は本当に今伝える必要があるのか否か。やはりそれにも、へえ、すごい!となまえさんは感動してみせるものだから、こっちとしては照れ臭くて仕方が無い。自分にはそれしか無いだけ、なんて言い訳が逆効果な気がして、またろくすっぽ返事もできないまま俯いてしまった。

なまえさんは俺の三分の一も食わないうちに箸を置いて、ご馳走様でした、とこれまたきちんと指先まで合わせて挨拶した。そんだけしか食わねえからそんな細いんだよ、とは直接言う勇気が無い。早々に役目を終えた箸の黒い先は、使われる前のように綺麗なままで食べ滓一つ付いていない。そんなところにも育ちの良さが窺えて、なんとかその高い基準に自分もぶら下がらなければならない使命感に追われた。舐り箸は行儀が悪いから、最後の一口を掻き込んだ時に閉じた口から慎重に箸を引き抜く。念のためくるりと回転させて見て、その先があれと同じように綺麗なのを確認して安堵した。一瞬躊躇ったけれど、手を合わせてぼそぼそとごちそうさまを言う。母親が酷く驚いた顔をしてからニンマリと笑うので、顔に熱が集まった。クソ、やっぱり慣れないことするもんじゃねえ。何だよ、と凄んでみてもまるで意味はなくて、もう後は誤魔化すようにすっかり温まった茶を飲むだけだ。


「いや〜、イイオテホンがいるとやっぱり違うわねぇ〜」
「はあ!?別に俺は何も」
「正清くん、お皿もらうね」


にゅっと目の前に突き出た白い腕に、思わず肩が震えた。見上げると出会った時のような柔和な笑みを浮かべたなまえさんが自分の皿を片手に、俺の取り皿と茶碗と箸を、同じようにテキパキと重ねている。喉に何かがつっかえたように息を吸うことも吐くこともできなくなって、礼も満足に言えないままなまえさんは部屋を出て行った。あんた…呆れの溜息だけ残して、母ちゃんも皿を幾つか持って行ってしまった。開けっ放しの扉だけで繋がった居間のそのまた向こうの台所から、手伝います、いいよぉ座ってなって、いえごちそうになりましたから、なんて会話が聞こえて、突き抜けた良い子っぷりに恥を通り越して懐疑的にすらなりそうだ。本当は何か裏があるんじゃないのか、腹の中では何を考えてんのか。そのあらぬ思索のくだらなさに自分で気付いて、自分でも呆れの溜息を漏らした。いつの間にか弟さん夫婦も席を立っていて、残されたのは俺と少し前まで料理が盛られていた皿だけだ。仕方無くそれらを重ねて、割らないように注意しながら台所まで運んだ。そこには婆ちゃんと談笑しながら皿を洗うなまえさんの背中があって、今からのことを思うと少し億劫になった。


「あの、これ」
「あ、持ってきてくれたの?ありがとう!」


無言で置いて立ち去るのは流石に駄目だと分かってはいたが、こうも予測できているはずの笑顔に胸が痛めつけられるのは何故なのか。これが、苦手意識と言う奴なんだろうか。一方的に抱いた劣等感を塗り込められた心が、それを直視することを許さないと言わんばかりに騒ぎ立てているのか。だがその一方で、差し出されたなまえさんの手に皿を乗せる時の、その濡れた指に触れるか触れないかのギリギリのラインに何かを期待している自分もいて、俺はその何かも、もはや自分の心も今はちょっと分からなくなっていた。

そのからの大人の行動は早くて、せっせと墓参りの準備をしたと思ったらそれぞれがそれぞれに任された荷物を持ってさっさと車に乗り込む。案の定、というかその為に、というか俺には一番嵩張って面倒臭い掃除用具が一式入った桶が任された。このまま大体の掃除もまとめて任されるのは目に見えていたから既に諦めの境地だ。別にそれは構わなかった。駄々をこねて子供だと思われるのも嫌だったし。うちの車を使っての移動らしいから、勝手を知ってる俺が後部座席のシートを倒して三列目に乗り込むことだって何も可笑しくないだろう。デカい荷物を持った大男が車の一番後ろに身体を押し込めるところなんて見苦しくて堪らなかったろうけど。


「よっ…と。お邪魔します」


だけどそんな、まさか。切られた草や花が纏まった時の少しキツイ匂いが近づいて、ハッと気づけば緑と紫と白の向こうで揺れる、黒い髪に心臓が条件反射のように縮み上がった。ちょっと待て、確かに、母ちゃんと婆ちゃんと弟さん夫婦と、って容易く予想できた展開ではあるけど、生憎さっきの俺にそこまでの脳みそは無かった。失念、だ。そりゃ俺とセットで三列目に座らされるのなんて、ちょっと考えたらこの人しかいないって分かったろ。心の準備をする時間はまたしても奪われた。


「なまえちゃんごめんね、狭いでしょ」
「大丈夫です、なんか、秘密基地みたいで」
「しばらく辛抱してね。お花、気を付けて」


なまえさんの手には墓に供える為の花束が握られていた。いくつかに小分けされ、茎の部分を輪ゴムでまとめられたそれらをそっと膝の上に乗せると、倒れた座席のシートに手を掛ける。前のめりになった拍子に髪が肩から零れて、遮光カーテンのように顔を隠した。


「正清くん、これ、起こせる?」


肩の部分に手を掛けていくら引っ張ってもビクともしないそれを起こさないと、弟さん夫婦は車に乗ることができない。そんな焦りが彼女に一所懸命引かせるけれど、少々重たいシートは上向きに引いて起こさなければならない。真後ろに引っ張って頑張っている姿を見て、俺は慌てて身を乗り出してシートの頭部に手を掛けた。


「これはこうやって…」


ぐい、と持ち上げてガチャンと音が鳴るまで引けばあっという間に俺たちは三列目に閉じ込められて、狭い個室での待機を迫られる。反動で座席に凭れたなまえさんと、中途半端に立ち上がった姿勢を支える為窓に腕を付けた状態の俺。チラと視線を下げれば、腕を少し下ろせば閉じ込められるような位置になまえさんの身体が。すぐ側の旋毛を凝視しながら、緊張のせいで鼻をすすった。
視覚聴覚ときて、次は嗅覚、か。
青臭い草花の匂いを押しのけて鼻腔に侵入したのは、不思議なくらい甘い、何を素材にして作り上げられたか分からないなまえさん自身の香りだった。あまりの衝撃に、尻餅をつくように着席する。背中に桶の縁とタワシの柄が食い込んで、僅かに痛い。


「さすが、力持ち」


どく、どく、どく。心臓が何の信号を受け取ったか、誤操作のように身体中に血液を送り込む。何だ、何だよ、そのニオイ。シャンプー、石鹸、洗剤?そのどれでもないような気がした。だって仮に俺が全く同じものを使ったって、きっとそんな匂いにはならねえよ。なあ、あんた本当に何でできてるんだ?何かが首を擡げようとするのを、とっさに桶とタワシをもっと食い込ませることで防いだ。


「イテッ」
「大丈夫?」


慌ててなんでもない風を装って正面を向く。誤魔化すように桶を膝の上に乗せてみれば、なまえさんはふーんと言って自分の側の窓を眺め始めた。俺はまた、忙しなく動く心臓を落ち着けようとして、服の上から胸の左側を掴むのだった。

苦行のような10分と僅かを過ごして、俺たちは漸く車を降りた。山の中だから木に囲まれてるのは当然として、そこに留まってジワジワと鳴く蝉の姿がありありと見えるのは少し気持ちが悪い。虫は苦手じゃねえけど、数が。幹に影差す黒い姿の多いこと多いこと。少々げんなりしながら大人に倣って坂を登る。荷物は多いが普段の運動量からすればこんなのは屁でもない。ただ暑さのせいで中途半端に汗が滲んで不快なだけだ。隣を歩くなまえさんを盗み見ると、早くも息を切らして薄っすら汗を掻いているのだから驚いた。いくら何でも早すぎだろ。車内との温度差か、或いは来る時には被っていた帽子を家に置いてきたせいか。邪魔なのだろう、顔にかかる横髪を何度も後ろへ払っている。指に引っかからない一筋だけがいつまでも首筋にペタリと張り付いていて、それが何か曖昧な境界線のようにぐにゃぐにゃと線を引いている。その線を飛び越えたら何が見えんだろう、そんなことを考えていたら、ふうと息を吐いたそいつと目が合った。


「暑いね!」
「…あんた大丈夫かよ」
「ふふ、山登りなんて久しぶり!正清くんは?」
「俺は、いつも登ってる。チャリで」
「え、すごい。ロードレースって山も登るの?」
「ああ。…なあ、倒れんなよ」


うん、倒れたら花よろしく、なんて、あんた馬鹿かよ。俺が運ぶのは下手したら花より簡単に折れそうな、あんたのその身体だよ。勘弁してくれ、と呟いた言葉の真意は多分分かってもらえていない。

山頂ではないけれど、墓がいくつも並んで立っている開けた場所に着いた。ここに俺たちのご先祖様の墓石も並んでいる。山道よりも幾分か風の通りが良くて、涼しい。俺はというと、休む間も与えられず掃除の準備のために桶に水を張ってくるようせっつかれたので、文句を言いながらも大人しく従っている。砂利を踏みながら談笑しているなまえさんはさっきより元気を取り戻していた。それでも病的に白いとこは、変わんねーけど。髪を耳にかけて、日差しを避けるように少し俯く。その拍子に風が木の葉を揺らして、枯葉を軽く舞い上げた。ふわりと広がるスカートと、そこから覗く滑らかなラインを描いた、なまえさんの脹脛。毒々しい仏花の紫がその白に良く映えて、俺は垂涎した。否、すんでの所で口をぴったり閉ざし、ごくりと喉を鳴らして欲ごと飲み込んだ。欲?欲って何だ?俺は何を欲しがったんだ?


「正清、水!水溢れてる!」
「あ、あぁ!?」


母親の声に視線を戻せば、無情にも桶から溢れ出す水がコンクリートを濡らしていく。慌てて飛び退いたが、既に被害を被っていたらしい靴の爪先から水滴が跳ねて脛を冷やした。


「あーあ何やってんのあんた」
「っせぇ…」


どうせ溢さず持つことなんてできやしないから、桶を少し傾けて水を捨てる。それを担ぐ時にはなまえさんはもう墓に向かって歩いていて、勿論あの白い脹脛が剥き出しになっているわけもない。

墓石を拭いて外柵を磨くのは男の仕事、花を活けて線香立てるのが女の仕事なんて、随分な女尊男卑じゃねえか。しかしそんな愚痴はここでは怖くて言えない。母ちゃんの弟さんが然もありなんと雑巾で土を拭っている様を見てしまえば俺が何かを言えるわけもない。掃除はあまり好きではない。部活で使うデッキブラシはいつも毛先が固くて、トレーニングルームの四隅にいつも塵が黒々と溜まってしまうのを箒で掬うのが面倒で、小さい箒の扱いにくさは俺を益々惨めにさせるから。それでも今は無心に汚れを擦り落とす。出来るだけ何も考えないように、ただ細いプラスチックの柄を折らないことには細心の注意を払って。墓参り用の備品を壊して、婆ちゃんを驚かせたくなかった。


「正清君、終わったかい?」
「あ、ハイ、大体」
「そっか、じゃあ流して終わろうか。僕らもお参りしないと」


母ちゃんの弟さんに促されて、墓石の天辺から外柵の角まで桶の水を流した。こびり付いた苔も石の凹みに埋まった土も蛇が脱皮した後の皮も全部流れて、周りの土の上に転がっていく。いらないもの、としてまとめたそれらを捨てる容易さは他人事で無いように思えて、少し怖い。俺が必要として止まない部活という枠組みから、俺は驚くほど外れている。望まれずに刮げ落とされたこいつらと俺は、同じもののような気がして、吹いた風の涼しさも相まってより一層悲しく感じた。

婆ちゃんから手渡された数珠を親指と人差し指の間に引っ掛けて、隣のなまえさんに倣ってしゃがむ。彼女は先に黙祷を始めていて、今なら好きなだけ眺めても誰にも何も言われないかと、不躾に思った。四本の指に巻かれた数珠は俺が持っているものと珠の色が同じで、ただでさえこっちは紐が伸びないか心配で手を通すこともできない数珠を、この人は二重に巻いて尚余らせている。本当に、何から何まで違うのだ、この人は。薄い手は幅まで狭くて、仮に俺があの手を握って力を込めれば簡単にぺしゃんこにできそうなくらい。今この場で試してみたらどうなるだろうか、と考えてはみたが、どう、の部分を想像する気にはならなかった。


「見て正清くん、あれ」


立ち上がったなまえさんが何かを指差す。そこにあるのは、さっき石の柵から剥がしていらないものとして土の上に落とした蛇の皮。それを認めたくなくて、態とわからない振りをした。


「あれって何だよ」
「蛇の皮!」


言うが早いがしゃがんで興味深そうにそれを眺めている。その、誰にも歓迎されない、俺みたいな脱け殻のごみを。何故だか無性に恥ずかしくなって、顔に熱が集まる。


「私、蛇の皮見たの初めて」


彼女の蛇の皮みたいに白い人差し指と親指がそれに伸びるのを見て、咄嗟に手首を掴んで引き止めた。俺の親指は、中指の関節に優に触れた。


「どうしたの?」
「…手が、汚れるだろ」
「洗えばいいじゃない」
「なあ、もう行こうぜ」


腕を引くと抵抗せずに立ち上がるものの、歩き出す時にはほんの少し名残惜しそうに後ろを振り返る。そうだ、それでいいんだ。そうやってそのごみに、何か珍しいものでもあるみたいな期待をあんたはいつまでも抱いていてくれればいい。その白い指が正体を暴いて、隣で転がる苔と同じくらいの無価値さであると気付かれることを俺は何よりも恐れ、その場から出来るだけ急いで彼女を遠ざけた。そういえば、慌てて掴んだ時の手の力はそこそこ強いものだったけれど、彼女の腕は潰れてしまわなかった。



「坂まで行くけど、なまえちゃんも行く?」


黒い革張りのマッサージチェアはいかにも高級そうでがっしりとしていて、木造の古めかしいこの家の中では異質さを発揮しているが、そこに白く薄いなまえさんがソファで寛ぐように座っているので、一層へんてこりんな印象を与える。坂と言っても別に真波が喜ぶようなサイクリングに誘ってるわけじゃねえ。車で半時間くらいの所にある坂のど真ん中に大型のデパートがあるのだ。だからこの家の人間はみんなそのデパートのことを坂と呼ぶ。坂まで行くなら俺が家に帰れるのも当分先のようだ。大人の機嫌が良くなるような返答を心得ているのだから当然、喜んでとか、ぜひ連れて行ってくださいとか言うもんだと思っていた。なまえさんの行かない、という返答は俺にとっても意外なもので、母ちゃんや婆ちゃん達からしたら余計にだろう。


「山登りで、ちょっとばてちゃって」


眉を下げて恥ずかしそうに笑う。断り方もスマートで、大人の反感を買うこともない。あらそう残念、と大人しく引き下がるのを見てつい感心してしまう。


「正清、あんたは?」
「俺、も…いい、行かねえ」
「はいはい、じゃあ子供組は留守番ね」


じゃあ行ってきます、と言い残して、ぞろぞろと玄関から出て行く集団。車のエンジンの音が遠ざかって、部屋には外で鳴く蝉の声だけが響いて、いやに静かな空間だと感じた。…なまえさんと、二人っきりになってしまった。


「テレビ点けてもいい?」


リモコンを持ったなまえさんがこっちに笑いかける。何か話しかけられることに緊張して頷きが曖昧になってしまったけれど、特に気にした風もなくありがとうとだけ言ってなまえさんはテレビの電源を点けて、チャンネルを一つ変えた。そこに映し出されたのは、白いユニフォームを土で汚して点を取る高校球児たち。夏の風物詩とも言える甲子園の試合だった。俺とそんなに年の変わらない、下手したら同い年の奴らがテレビの中で戦ってるのは、ひどく生々しくてそれでいてどこか現実離れしてる。


「甲子園、いつも見てんのか」
「うーん、たまに。」
「…意外」
「そう?」


ふふ、と笑う姿からは、意外と言われたことに対する不満は特に見えない。自覚しているのか、よく言われることなのか。仮に俺が試合に出ている側なら、こんな人が応援席にいるのを見たら幽霊か何かと勘違いするかもしれない、なんて思いながら、テレビからそっと視線を写す。ゆるく弧を描いた唇から続く顎のラインは少しシャープで、そこから首がまっすぐストンと落ちて、背凭れに体を預けているにも関わらず姿勢が綺麗だ。呼吸に合わせてゆっくり上下する胸の膨らみに目が釘付けになる。この人が生きている証に、狼藉を働いてみたい。無遠慮に手を突っ込んで、ぐしゃぐしゃに掻き混ぜた後綺麗な元の形に戻すことなくボロボロに引き裂いてやりたい。そんなくだらないことをさっきから、もしかしたら出会った時からずっと考えているかもしれない俺の指が、ピクリと痙攣した。


「近所に住んでた子が、野球してたの。今はもう辞めちゃったらしいけど、それで甲子園はつい見ちゃうんだ。プロ野球は見ないんだけど」


近所の子、が男を指していないなんて、誰が思えるだろうか。今の行動が少なからずオトコの影響を受けたものであることを、つまらないとさえ思う。キン、と小気味良い音の直後に湧く歓声。なまえさんは特に破顔する様子も見せず先ほどのように微笑んで、カメラが追いかけるボールの映像を見ている。ツーランホームランの逆転でどよめき立つ会場の音は、当然であるのにこの空間では浮いている。リモコンを手放したなまえさんが鞄から文庫本を取り出したので、余計に。真っ白な表紙に黒の明朝体で書かれた文字、「ジ・アージ・トゥ・デストロイ」。デストロイ…破壊。アージの意味はピンと来ないが随分似合わない物騒なタイトルの本を読む。


「それ、」


指差して内容を聞こうとするが、続きを言い淀む。元から本は読まないし、あの小さい紙束が自分の手に似合うとも思わない。手にするのは専らロードレースの雑誌くらいなものだ。それはきっと見てくれから読み取るにも易いだろう。そんな俺が本の内容に興味を示すことは、この人の目に滑稽に映らないだろうかと逡巡する。然しながら、なまえさんは小馬鹿にした風な態度は欠片も見せず、目を細めて笑いながら俺の欲しい答えを寄越してくれるのだ。


「ミステリーなの。犯罪起こして懲役二年の判決が出た男の人の刑務所生活。」
「…ミステリー」
「うーん、大元の意味のミステリー、かな。不思議とか、怪奇とか。実は全部男の妄想で、犯罪なんて起こしてないってオチ」
「はあ…んだそれ。てかオチ知ってんのかよ」
「前に読んだことがあるから。心理学のレポートで使いたくて読み返してるの」


ページを捲る手は些か速い。顎に指を添えて何かを考え込む仕草が続く。ひょろりと伸びた手首の感触を思い出す。柔くて、そのくせすぐ骨にぶつかって、それでいて当たり前のように細い。目も眩むような白さにもう堪え切ることができなかった。ゆっくり手を伸ばしてそれをもう一度掴む。小さい花が頼りなさ気に揺れている花壇に、土足で踏み入るような危うさだった。いつ靴の先が、その葉を巻き込むか分からない危うさ。まさに今、掠れようとしている。


「…本当に白いよな」
「正清くんからすれば、私じゃなくても白く見えるんじゃない?」
「ロードやれよ。あっという間に焼ける」
「私、友達とドッジボールしてて、外野から内野にパスしようとして相手にボール取られる運動音痴だけど、大丈夫?」
「ブハッ!そりゃ運動音痴じゃなくて力が弱えだけだろ!ロードなんてチャリ漕げりゃ余裕だ」
「へえ、私にもできるスポーツがあったんだ」


すごいね、ロードレース。その言葉に、俺の口は笑った形のままピタリと止まった。まるで自分が褒められたかのようなこそばゆい感じが背中を走って、じわじわと顔に熱が集まる。ロードバイクに跨るなまえさんは想像しづらいが、あの細いフレームはよく似合うと思った。


「始めるなら言ってくれれば、教える」
「…うん」


不意になまえさんの視線が逸れて、自分の手首に移り、また俺を見る。その瞳には不快も戸惑いも無い、ただ手を握られている事実を認識しただけ。どこか、他人事のように映っているのだろうか。自分の危険に身を震わせているのでなく、ただ風が吹くから揺れている、小さい花。心ない人間に踏まれようとしていることに、まるで気づかない。


「正清くん、破壊衝動って知ってる?」
「破壊、」


衝動。思い出した、アージって、そういう。蘇る、高校受験の勉強でやたらに英単語を頭に詰めた記憶。あの時は、覚えた単語の三割も役に立つか不思議だった。どうやら三割のうちにそいつはいたらしい。アージ・トゥ・デストロイ、直訳で


「破壊衝動。急に物壊したくなったり、人のこと傷つけてみたくなったり、するの。人は誰でも持ってる、けど、普段は理性で抑えてる。そんな欲。」
「…欲」
「この小説、我慢できないで本当に人を傷つけたらどうなるんだろうって、ずっと想像してるの。主人公が」


心臓がだんだん早巻きに鳴り出して、身体の熱が手を伝ってなまえさんにばれてしまいそうだ。それでも頭の中では冷静に今日の心のうちを反芻する。何度、この人の白い指に、脚に心臓を高鳴らせて、その中で俺がこの人にしてやりたいと思ったことは。怒りに身を任せて部活の先輩を殴るのとはわけが違う、なまえさんに働きたい暴力には、俺が正しいと思える理由が無い。それでも、したい。描いた光景を今、ここで。俺がなまえさんの手首を離し、胸倉を掴んで引き寄せるのを誰も止めようとしない。目の前のなまえさん自身でさえも。そうして、俺は、その白い肌にぷつりと浮かぶ唇を、噛んだ。





咀嚼して、嚥下。一通り食い荒らして、その跡をベロリと舐め上げてまた続きから食んで行く。柔肌は弾力があるはずで、その実犬歯がすっと通って皮膚を破る。もっと味わって食えよ。理性ですらこの行為を咎めることは無く、むしろもっと肉の食感を寄越せと語りかけてくる。しかし胃や、喉が雄叫びを上げて、そんな官能的な瞬間すらまとめて飲み込んでしまうので、俺の口には驚くほど味という実感が残らない。堪らなかった。なまえさんを形作る薄いガラスの一枚一枚を、足の裏で粉々に砕いている。もっと滅茶苦茶に踏み荒らして、跡形すら失くしてしまいたい。より深く貪ろうと、後頭部を抱え込んで頬に歯を突き立てる。うっすら目を開けると、なまえさんの視線が至近距離から俺を貫いていて、それがあんまりにも柔らかく刺さるので、興奮が急速に最高潮に達した。この人は不思議なくらい何も変わらなかった。自分が壊されているのに。俺は、この人の表情が崩れるところを見たことがない。しかし今は好都合だった。下手に抵抗されると、興が削がれる。


「なまえさん」


頭の中で何度も名前を呼ぶ。口に出しても、この人の耳はもう俺の腹の中だからきっと聞こえない。そっととった手は柔らいと思っていたが、意外と骨ばっていて、そのリアルな感触がますます俺を唆った。はち切れるほど膨らんだ熱の塊をその手に握らせる。数回手を滑らせると、あまりの気持ち良さに尾てい骨のあたりから浮遊感が広がって、思わず声を上げそうになった。肉の感覚が足りなくて舌を突き出して掬い取る。掬い取ろうとして、その舌先は自分の掌にぶつかった。どうやら俺はなまえさんの頭を食べ尽くしてしまったらしい。一度も、味わうこと無く。

顔の無いなまえさんが、笑う。


「まさきよくん」


その瞬間、潰れたなまえさんの手の隙間から、欲がドロリと零れ落ちた。





ウウウーーーーーーウウウーーーーーーンンンン………………。
どこまでも届きそうなサイレンの音に、ゆっくりと目を開けた。頭がボーッとする。ずっと俯いていたのか、首を伸ばすと凝り固まった筋肉が悲鳴を上げるように痛んだ。テレビの中では見たことも無い高校の聞いたこともない校歌が流れていて、大して興味を抱くものでもないのになぜか心に引っかかる。何気無く部屋を見渡すと、自分の座っているソファから少し離れたところには、この部屋に不釣り合いなマッサージチェアが鎮座している。それを認めた途端、背筋が凍りつくような感覚を覚えた。


「…なまえさん?」


そこに人の姿は無い。そうだ、この甲子園はなまえさんが見始めたものだ。なら、なんでなまえさんがここにいないんだ?無意識のうちに腹を摩る。空腹感は無いが、喉が異常に渇いている。現実味の無い嫌な予感にどんどん蝕まれて、気持ちが焦る。もしかして、俺は。本当に?…なまえさんを。


「正清ー!ただいまー!」


心臓が馬鹿みたいに縮み上がって、分かりやすいくらい肩を震わせた。引き戸がガラガラと開く音と、母ちゃんが俺を呼ぶいつもの声にひどく安心する。よっぽど酷い顔をしていたのか、母親に怪訝そうな表情で睨まれた。


「…どしたの?」
「あ、いや、なまえさんいねーんだけど」
「なまえちゃん?」


今一つ要領を得ない反応にまた焦りが生まれる。まさか、誰その人、うちにはそんな人いませんけど、なんて言うんじゃねえだろうな。


「なまえちゃんなら先帰りますってさっき電話あったけど」
「…あ?」
「なに、あんたもしかして寝てたの?」


本当だらしないところしか見せてないんだから、という言葉はもう頭に入ってはこなかった。帰る、と電話したその人は本当になまえさんか?と意味の分からないことを聞きそうになって、そっと視線を逸らし、舌でそろそろと歯をなぞる。その犬歯には、あの時突き破った皮膚の感触が今もはっきりと残っていた。一体どこまでが本当でどこまでが、俺の想像の範疇だったのだろう。机の上に置き去りにされた本の白い表紙に浮かぶ明朝体の黒い文字を目で追いながら、ざわざわと落ち着かない左胸を押さえた。目を閉じて、あの白い姿を思い浮かべる。柔らかく微笑むはずのそれにはやはり、頭と右手は見えない。





20150822









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