03



彼に背後から声を掛けられた瞬間、なまえは悲鳴を上げて飛び上がり、慌ててその場から離れた。その距離凡そ五メートル。彼女が警戒心を露わにするのも無理はない。この男、猿投山渦にはそれ程の前科があるのだから。


「まあまあ、そんな怖い顔すんなって」
「…私まだ渦さんのこと信用していませんから」
「あれは俺も悪かった、反省してる。この通りだ。」
「…本当に?」
「ああ、本当。背中の竹刀に誓っても良い」
「…そこまで言うなら」


なまえは目の前の男に三歩だけ近づく。腕を伸ばしても届かない程度の間を開けておくことが、今の彼女の限界だった。


「俺が信用されるまでそれなりにかかるってことか」
「そうです。最早大罪と言いたいくらいですから」
「悪かったって…でも分かるだろ?俺も必死だったんだよ。蟇郡の奴見てみろ、ずっとあんたを追いかけ回してる」


蟇郡苛。緊張の糸を張り詰めていた彼女の顔が、その名を聞いた瞬間見る見るうちに赤く染まっていく。その様子を見て、猿投山が意地悪く微笑んだ。


「お陰であーんな噂立てられて…大変だよなあなまえも」
「っ!?し、知ってるんですか!?」
「かなり広まってるぜ。本人は御構い無しだろうけど」


なまえは猿投山に飛びついて、彼の胸倉を掴んだ。彼女の急な接近に驚く猿投山だったが、直後激しく前後に揺すられ、あらゆる思考を放棄する羽目になった。


「お願いです渦さん!今すぐ辞めさせてください!」
「オ、オレぇ!?え、ムリ、無理無理だってあいつ皐月様の命令は絶対だし」
「駄目ですよ、三つ星の蟇郡さんが無星の私なんかとのあらぬ噂の標的になるなんて!!」
「じゃあ尚更制服貰ってくれよ!」
「それができないから困ってるんじゃないですかー!!」


なんでだあぁ、と、揺さぶられたまま猿投山が唸った。漸く手を離したなまえを、やっと解放された猿投山が肩で息をしながら睨む。彼もまた、なまえがどれほど頑固な性格をしているのかは承知済みなのだ。


「頂いておいて着ないなんて、それこそ反逆罪で蟇郡さんに捕えられますよ」
「ああ、それは…いや、しかし、うーん」


何度も頷いて納得を示したいところだが、彼女の言い分を認めてしまうわけにはいかない。猿投山の態度は煮え切らないものだった。


「だから私、どうしても受け取れないんです。とんでもない業務執行妨害だとは、分かっているんですが」
「だがな、あいつは失敗なんか許さねえだろうから、これからもあんたに付きまとうぜ?」


だから早く受け取ってしまえば良い、という言葉を、敢えて猿投山は飲み込んだ。全く別方向からの切り口を、彼は見つけてしまったから。


「蟇郡さんにも何度も説明しているのに…というかあの方、他の職務はどうしているんでしょう?私ばっかり構っていて、大丈夫なのでしょうか?」
「…随分と気にかけるな、奴を」
「え?」


急に猿投山の声色が変化した。ほんの一瞬垣間見えたのは、宛ら獲物を狙う肉食動物の殺気のようで。なまえは何故か猿投山から目を離せずにいた。


「噂になっても向こうを心配して、付きまとわれても相手の身を案じる。俺の時と随分態度が違うじゃねえの」
「…拗ねてるんですか、渦さん」
「ああ拗ねてるとも。だがな、これはこれで面白え」


猿投山が少し屈むと、二人の視線が真っ直ぐぶつかった。じり、と後ずさる彼女を猿投山は逃がそうとはしない。それ以上に身体を寄せ鼻先が触れるくらいまで近づいて、そっと囁いた。


「お前、蟇郡が好きなのか」





瞬間、耳を抑えてなまえが飛び退いた。その顔は湯気が立ちそうなくらい真っ赤で、それを見て猿投山が一つ笑みを溢す。


「なっ…な、なんですか、いきなり!?」
「お、照れてんの?それって俺に?それとも蟇郡?」
「ち、違います照れてなんかいません断じてっ!」
「へーえ?それにしては尋常じゃ無い顔の赤さしてるぜ」
「っ、渦さんの馬鹿!!」


急な罵りの言葉にも猿投山は動じない。彼の思惑は概ね成功したと言っても過言ではないからだ。


「どうして急に、そんな事を」
「別に、ちょっとからかいたかっただけ」
「ふざけないで下さい…」
「でもまあ、当たらずとも遠からずってとこだろ?」
「…!もう知りません!」


なまえは会話を強制的に終了させ、勢い良く背を向けてそのまま歩き出した。猿投山がその様を苦笑しながら眺めている。


「おいおい、どこ行くんだよ」
「教室に、戻ります」
「丙の教室は逆方向だろうが」
「………お手洗いに行くんです!」
「そうかよ。…もう直授業始まるから、早く戻れよ」


ふん、と鼻を鳴らす彼女の顔は、未だ熱が引かないままであった。猿投山の声が廊下に響く。


「なあ、最後に一つ、良いか」
「…何ですか?」


「あいつがさあ、風紀部委員長なのにその噂を粛清しないのは何でだろうって、考えた事無えか?」


彼女には、猿投山の言葉が意味するものを理解することができなかった。予想もしていなかった問いを頭で反芻するうちに、今度は猿投山が背中を向けて立ち去って行く。はためく上着も、ギラリと光る肩の棘も何も語りやしなかった。
一人取り残されたなまえは、歩くことも忘れたまま予鈴が響く廊下に立ち尽くしていた。猿投山渦の言葉の数々が脳内を巡る中、答えの導き出せないような問いを心で弄びながら。





奥に秘めたるを、透かす








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -