01



「このクラスになまえという女はいるか」


蟇郡には肯定以外の言葉を聞く気は無かった。事前に与えられたデータに基づいて此処へ来たのだから。整列している生徒は皆同じ顔に見える。手近なのに顔を上げさせ問うと、名も知らぬ男子生徒が声を張った。


「2年丙組のなまえは、先ほど教室を出て行ったところであります!!」
「そうか、ならばここで待つとしよう」


蟇郡は教壇の上で仁王立ちした。その威圧感によって、彼の頭は天井に届くくらい高い位置にあるように見えた。否、実際扉を少し屈んでくぐり抜けるあたり、彼の身体は巨きいのだろう。それの影が室内の床を真っ二つに割るように伸びていた。
今は授業と授業の合間の休憩時間だ、程なくして目的の人物はこの教室に姿を現すことだろう。




















『蟇郡、お前に特務を与える』


本能字学園理事長の娘であり生徒会長その人である鬼龍院皐月。その彼女が命令したとあらば、絶対の忠誠を誓う蟇郡が逆らうべくも無かった。


『御意』
『ターゲットはこいつだ』


皐月生徒会長が投げた一枚の資料が、床を滑り、跪く蟇郡の目の前でぴたりと止まった。それは生徒の個人情報が記された調査書で、右上に写真が貼られている。蟇郡は、瞬時にその顔と名前、所属する部活等、基本的なデータを頭にインプットした。


『そいつに、二つ星極制服を授与したい』
『仰せのままに』


蟇郡の脳は、鬼龍院皐月の前では直列電球の回路並に単純で、最早「彼女の命令を実行する」一色であった。


『せいぜい気張ってくれや、蟇郡』


その思考に水を刺す、特徴的なハスキーボイス。仄暗い照明の部屋でも、その男がどこにいるのか蟇郡には考えなくても分かる。大方いつものソファに踏ん反り返って、木片でも弄っているのだろう。


『…猿投山』
『そいつ、俺の管轄。それ、もともと俺の仕事』
『…皐月様、これは』
『お前も資料を見ただろう、彼女の弓道の腕前はなかなかだぞ。例えるなら現代に生まれし那須与一、と言ったところか』
『ただちいとばかし頭の固い奴でな。俺の話に聞く耳持っちゃくれねえのよ』
『どうせ、貴様の説得の仕方に難があったのだろう』
『まあ、人には得て不得手と言うものがある。彼女の説得は、硬派なお前に任せようと思ってな…構わんか』
『は。この蟇郡、命に変えても』


鬼龍院皐月に使命を与えられた蟇郡は疾い。硬派、という表現をからかおうとする猿投山に逐一突っかかりもせず、その三つ星が輝く制服を翻し、部屋を出た。
彼女の言葉に一切の陰りを感じる必要など、どこにも無い。疑うことは何も無い。ターゲットが何故極制服の授与を断ったかなど、己が意に介するはずも無かった。




















丙教室内の空気は異質であった。それどころか廊下も、下手をしたら校舎一体が冷水の中にぶち込まれたように暗く、冷たい。それほどに、この男は脅威である。風紀部委員長、蟇郡苛。クラスの誰もが、彼が此処に来た原因である女生徒を今か今かと待ちわびた。

ギイ、ギイ、バコン。

まるで潜水艦の開閉口のような扉が軋んだ音を立てる。全員が、そこから外の光が差し込まれるのを凝視した。その視線を受け戸惑う女生徒こそ、蟇郡の求めるなまえと言う人物であった。


「貴様が、なまえか」
「え、あ、はい…あの、これは」
「俺は風紀部委員長蟇郡苛だ。皐月様の命を受け、貴様にこれを渡しに来た」


側にいた風紀委員が蟇郡の予想と寸分違わぬタイミングで差し出す。未だに扉の前で立ち尽くすなまえを、クラス総出で蟇郡の前まで追いやって、二人は教卓を挟んで向かい合った。
蟇郡が、掴んだ二つ星極制服を差し出す。二つ星極制服着用を許された生徒を輩出した丙室内は歓声を上げた。
これを目の前の女が受け取れば皐月様からの特命が完了するのだから、容易い。などと思った蟇郡は甘かった。この任務がどれほど過酷で、故に猿投山ですら成し遂げられなかった事を、彼は思慮に入れ覚悟を決めるべきだった。
女の言葉は蟇郡を、丙組を、そしてこの本能字学園を、北極の氷の中に投げ飛ばした。





「お断りします」





凍り付いた教室の空気を引き裂いたのは、1枚の窓ガラスが勢いよく砕け散る音だった。蟇郡の三つ星極制服の袖から伸びた鞭がそれに叩きつけられ、ひしゃげた窓枠ごと場外に飛び出す。バラバラと飛び散ったガラスの破片による被害を被った人間がいるかなど、今にも被害が及びそうな室内にいる誰にも気にかける余裕は無かった。


「…問おう、何故だ。何故皐月様の御意志に背く」


蟇郡となまえでは身長差がありすぎて、その表情を彼女が見ることは叶わない。しかし、その声色から彼が底知れぬ怒りを抱き、爆発させようとしていることは窺い知れた。


「その制服を、着たくありません」
「それは何故かと聞いている!!」


蟇郡の手が目の前の机を思いっきり叩いた。ばん、と鳴る大きな音に少しだけ怯えた様子を見せたなまえだが、目の前の蟇郡から視線を逸らさぬよう努めて言った。


「その極制服の話は、渦さんから伺いました。人間以上の力が手に入るんですよね」
「ああ、そうだ。皐月様が与えてくださる絶対評価の証拠だ。そして貴様にはこの制服を着る権利がある」
「弓道にそんなものは要りません」


ビキ、と蟇郡の額に青筋が浮いた。


「自分の力だけで的を射てこそ弓道です。制服のお陰で強くなっても意味が無いのです。ですから私、その制服は受け取れません」


蟇郡が、その大きな拳を振り上げた。クラスの誰もが息を飲み、なまえがびくりと肩を震わせ身を竦めた。
しかし、その拳を彼女目掛けて振り下ろそうとした蟇郡の頭に、彼が忠誠を誓う鬼龍院皐月の言葉が過る。





『ただし暴力はいかん、いかんぞ蟇郡。弓を嗜む彼女の姿はなかなかに美しい。あれに指一本触れて傷つけてみろ。私はお前を委員長から除名する』





彼女を傷つけてはならない。触れることは許されない。力を振るえば彼女は直様屈服し、そのか細い腕に制服を通すだろう。しかし、今はそれができない。皐月様がそれをお望みでない限り。


「しかし、これは皐月様が、貴様にと特注なさった極制服だ。貴様にしか着ることは許されん」
「はい、それも渦さんから。しかし、着る意志も無いのに受け取ってクローゼットに仕舞うだけ…なんて、それこそ皐月様のご厚意を踏みにじります。それなら私は、受け取らない方が良い」


彼女の正論は突きつけられれば突きつけられるほどに蟇郡を追い詰める。拒否を示されればそれは、任務の失敗を色濃く彼に映し出す。皐月様の期待を裏切るわけにはいかない、しかし、現時点ではどう足掻いても彼女にこの極制服を着せる事はできない。蟇郡は冷静に状況を判断し、自分がこれ以上此処にいることが何の利益も生み出さないことを理解した。


「皐月様の命令は絶対だ。俺は貴様にこの極制服を着せてみせる…必ずや」
「は、はあ…」
「今日のところは引き下がってやる。だが、俺は猿投山のようにはいかんぞ。覚悟しておけ」


なまえが何を言う隙も無いまま、蟇郡はくるりと身体の向きを変え、同伴していた風紀委員が列を分かれて花道を作る。その間を蟇郡が通ると一歩とずれることなく2列縦隊を形成し、風紀委員らは丙の教室を出て行った。
嵐が去った後の静けさが教室を満たす。今後自分に降りかかるであろう多難を感じ取ってか、なまえは一つ身震いをした。誰一人騒いでいない室内と、教壇の前に立ち尽くす彼女、そして一つだけ吹き抜けた枠の無い窓を見た教師が、不思議そうな顔をして首を傾げていた。





其の特務、を極め








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