昔、祖母が私に語って聞かせてくれた話があった。ほとんどの人が知らない二つ目の世界がある、と。私たちのいる世界が『表』ならば、そこは『裏』と呼ばれる所だと云う。他にも『光と影』『陽と陰』など、こちらと対を成す名前で呼ばれている。裏の世界は常に薄暗く、人成らざる人が蔓延る世界らしい。
それと、祖母は何と言っていたっけ。随分と前の記憶だから、もう忘れてしまった。しかし、どうしてこんな時に昔のことを思い出したのだろう…。



「っアンタ…」
「…?」


声を掛けてくれた男性は、私の顔を見た途端に髪の毛と同じ大きな金色の目を更に大きくした。驚いているようにも見えるが、驚く要素は何一つ持ち合わせていないのでとりあえず首を傾げる。ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したことにより現在の状況を判断するぐらいの余裕は出てきたらしい。ついさっきまでの私なら自分のことで精一杯だったけれど、彼の様子を窺うことぐらいなら出来そうだ。むしろ、窺う程隠しきれていない彼の動揺っぷりに逆に戸惑う。何か困らせることでもしてしまったのだろうか。いや、そもそも急に大泣きされたら誰でも困るに決まってる。私を見つめたまま動かなくなってしまった金色の彼。尋ねたいことは山程あるが、ひとまず名も知らぬ彼が話し出すのを待とう。そう心で決めて数秒後。彼はおずおずと口を開いた。


「アンタ、名前は」
「……名字ですけど…」
「下の名前は」
「名前、です」


焦った様子で名前を聞いてきた男性は、私の名を聞くと小さな声で何かを呟いてから口許を自らの大きな手で押さえた。人の顔を見て驚いたり名前を聞いて顔面を蒼白させたりと失礼な人である。


「どうやってここに来た」
「それが…分からないんです。部屋に、いたんですけど、気付いたらここに、いました」


途切れ途切れにこれまでの状況を説明する。気付いたら知らない場所にいた、なんて、もっとマシな嘘をつけぐらいに思われてるのかもしれない。未だ男性は青い顔のまま立ち尽くしている。


「あの、ここは一体…」


頭を過る過去の記憶を振り払うように、私は彼に問い掛けた。彼は気まずそうに視線をそらす。


「ここは……君の居た所と対を成す、人成らざる者───妖たちの住む世界」
「あや、かし…?」


聞き慣れない単語に耳を疑う。妖なんて昔話に出てくるようなおばけが住む世界に来てしまったと言うの?そんな、バカなこと。


「君の世界では裏、影、陰って呼ばれてる場所」
「うら…かげ、いん……」
「そう」


裏の世界は常に薄暗く人成らざる人が蔓延る世界らしい。


「………うそ」


そして、


「迷い込んだら最後」


もう二度と


「もう二度と帰れない」


彼が瞼を伏せた。涙は、出なかった。


第一章・第三話(13'0516)
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