名前の姿が見えなくなるまでその背中を見つめ、気配が完全に消えたところで視線を月へ戻す。今日は月に一度訪れる満月の日。朝から、いや、昨日から今日という日を全身に流れる妖の血が待ちわびていた。荘厳な輝きに身体が疼いて仕方ない。ほとんどの妖は何の恐れもなく本能のまま普段では味わえない快楽を存分に感じているのだろう。黄瀬もまた同様に、内から沸き上がる高揚をこれ以上抑えることは出来そうになかった。


「ッ…間に合って良かった」


一陣の風が吹き荒れた後、人間とは言い難い黄瀬の姿があった。獣の耳。鋭い爪にうっすらと覗く牙。揺れる四つの尾はまさに狐のそれ。黄瀬程の妖ですら満月を前にすると溢れ出る妖力を抑えきれず、このように獣の姿に戻ってしまう。名前には見せたことのないこの姿こそが、本当の黄瀬。普段から見る人の姿はあくまで仮の形に過ぎない。


「自分じゃどうにも出来ないって分かってるけど、どうにかなんないっスかね」


勝手に元の姿に戻ってしまうのを面倒だと思ったのは今日が初めてだった。これまでなら気にもせず晒け出せたはずなのに今はどうだろうか。答えは無理。即答出来る。なるべく人の形を保っていたいと思うのも、全てはあの人間の少女のためなのだから。


自分の人形(ヒトガタ)の時とは違う鋭利な指の爪先を見つめる。こんな化け物の姿をした自分を見た名前はどう思うだろうか。脆弱な人間や同胞すら容易く殺せてしまう力を持つ俺を、君は小さな肩を震わせ怖がるかもしれない。泣くことだって考えられる。そんなの絶対に嫌だ。だからこれから先何があろうと彼女には人以外の姿を見せる気は毛頭ない。黄瀬はどんなに些細な理由であれ名前の涙はもう見たくないのだ。あんな、どうしようもなく胸が締め付けられる思いはもう二度と…。


「涼太様。皆様ご到着なさいました」
「分かってる。もう少ししたら行くよ。サヨは名前を見ててあげて」
「御意に」


後ろ手をついて月を見上げる。彼女は眩しいと言ってしばらく目を瞑っていたが、妖である自分には眩しさなどは一切感じられない。むしろ見れば見る程溢れる力を今すぐにでも解き放ちたい衝動に駆られる。本能に従い満足するまであらゆるものを壊して壊して壊し尽くしたい気分にさせられるのだ。既に自我のない低級妖怪たちは暴れまわっていることだろう。それを鎮めるのが満月の夜に赤司より課せられた黄瀬の仕事。この日だけ、力で領土を支配する名前が知ることのない黄瀬がここにいる。


「世界のこんな醜いところ、名前は知らないままでいいよ。君の前では綺麗なままの俺でいさせて」


なんて嘘ばっかり。心の奥底では本当は名前に黄瀬の全てを知っていて欲しい。綺麗なとこも汚いとこも。でもそれが名前の感情をどう左右させるか分からないから怖い。怯えた目を向けられるくらいなら、いつまでも自分を隠していようとさえ思う。そうすれば彼女の中でいつまでも『優しい黄瀬さん』でいられるのだから。


「おい黄瀬。何してんだ早く行くぞ」
「はーい!今行きますよ、っと」


名前に全てを伝えるには、黄瀬はあまりにも長く生き過ぎたのかもしれない。何も知らないあの頃に戻れたらどんなに良かっただろう。今でもそう思わずにはいられないのだ。


14'1006
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