君のことを考える





名前と出会うまで俺の知っている人の中に、耳が聴こえない…それどころか障害を持つ人なんて一人もいなかった。これからもそういった人たちとは無縁だと思っていたし、わざわざ自分から話しかけたり友達になろうなんてちょっと前までは思わなかった。そう、ちょっと前までは。俺は後ろ向きに椅子に座り、背もたれに腕を、その上に顎を乗せて後ろの席の一くんを呼んだ。

「なぁ一くん」
「何だ」
「耳が聴こえないってどんな感じだと思う?」

急にどうしたと言わんばかりの表情で机に広がった参考書から顔を上げた一くん。そんな一くんと目が合って、次の休みに模試があると言っていたのを思い出した。一くんに、シャーペンの動きが止まってるよ。そう言うと下を向いて再びカリカリと字を書き始めた。俺はまた一人でうんうんと考える。俺は目が見えないわけでも歩けないわけでも、体の器官に異状があるわけでもないから、耳が聴こえないという名前の気持ちを一ミリも分かってやることは出来ない。なんとなく耳を塞いでみる。それでも聞こえてくる周囲の音。何も聞きたくなくて更にぎゅっと掌を押し付けた。でも、まだ聞こえて、俺は腕を下ろした。その時、参考書と睨み合っていた一くんがポツリと呟いた。

「耳が聴こえない感覚というのは、聴こえなくなってからでないと俺たちに理解することは出来ない」
「…」
「平助、自分勝手な行動に慎め。お前にその気が無くとも、お前の、その理解しようとする気持ちが相手を不快にさせるかもしれん」
「…うん」

何だか微妙な空気のまま次の授業が始まった。授業中もずっと頭には名前のことばかりが残っていた。十月半ば。もう夏休みが終わって一ヶ月半が経つけれど、夏休みに数回会っただけであれから一回も会っていない。連絡先も家も知らない。そもそもこの辺りに住んでるのかもわからない。千鶴には聞くに聞けないし。あー、メアド聞いとけば良かった、って今更後悔したって遅いんだけど。

「じゃあなー平助」
「おーまたな」

あっという間に放課後になった。塾があるからと足早に教室を去るクラスメートの背中をぼーっと眺めていると携帯に千鶴からメールが来た。委員会があるから先に帰っててくれという簡単な内容で、それに、わかったとだけ返信をして、図書室に勉強をしに行くという一くんに別れを告げて教室を後にした。


一人で歩く帰り道。あのコンビニに寄った。ここに来れば、また名前に会える気がしたんだ。

「いらっしゃいま…あら、平助君じゃないの」
「こんちはっす」

この時間ここのコンビニは、アルバイトの高校生と交代するまで感じの好いおばさんが一人で営業をしている。おばさんはコンビニに入ってきた俺に微笑みかけると、今肉まん安いよ、と言った。俺はじゃあ一つ買うよと言ってから、お菓子コーナーを横目にドリンクを選びに行った。いるわけ、ないか。お茶を一つ持ってレジに向かうと、肉まんを包むおばさんがレジにいて、会計をしてくれた。

「サンキューおばさん」
「勉強はしてるの?」
「まあぼちぼち」
「あ、そうだそうだ。ちょっと待ってて」

おばさんは店の裏方に慌てて消えていった。俺はコンビニ袋片手にレジの前に突っ立っていた。

「もう帰るの?」
「そう。戸締りはしっかりしておきなさいね」
「お母さんは買い物してから帰るから」

中から話し声がする。それは全ておばさんの声で、誰かと電話でもしてるんだろうとあまり気に止めなかった。早く帰りたいんだけど…。そう思いつつも黙って帰るのも気が退けるし、おばさんを待つことにした。数回会話を終えたおばさんは、裏から誰かと一緒に出てきた。その人物は、俺が探し続け会いと思っていた人、名前だった。名前も俺に気付くと目を丸くした。

「名前?!」
「……平助君、名前と知り合いなの?」
「夏休みに会って、千鶴って幼なじみの従姉妹って聞いて」
「千鶴ちゃんと幼なじみだったのね」
「おばさん…千鶴のこと知ってんの?」
「知ってるも何も、私は千鶴ちゃんのお母さんの妹で、名前の母親なのよ」

おばさんは人の好い笑みを浮かべる。その笑顔はなんとなく千鶴に似ている気がした。俺はただただ驚いた。幼なじみの従姉妹に会って、コンビニで働く仲良くなったおばさんが幼なじみの叔母で名前の母親で。
おばさんは名前を手招きすると、名前は躊躇い勝ちに俺の前にやって来た。名前はペコッと頭を下げる。

「ひ、久しぶり」

言ってから、あ…、と思ったが、おばさんが手話で伝えてくれて、それに彼女は頷いた。

「名前と何処で友達に?」
「ここで会ったんだ」
「そうなの。名前と仲良くしてあげてね」
「うん」
「ああ、それと、これ」
「?」
「ドーナツ。ちょうど二つあるから二人で食べなさい」
「ありがとう」

おばさんは笑った。そして名前に手話で何かを伝えると、彼女はコンビニを出ていった。俺もその後に続いてコンビニを出ると、コンビニの正面にある公園に名前が入っていった。名前はベンチに座ると、後から公園に入ってきた俺を見て隣をポンポンと叩いた。俺は隣に座った。名前はドーナツを一つ取って差し出してくれた。俺はそれを受け取ってありがとうと言った。名前は笑った。
そのまましばらく黙ったまま時間が流れ、その沈黙を破ったのは予想外にも名前だった。

『へいすけ君…だよね?』

向けられた携帯の画面には、そう打ち込まれていた。名前…覚えててくれたんだ。嬉しい。俺はそんな些細な事に何故か喜びを感じた。俺は頷いてみせる。俺も携帯を取り出して文字を打ち込む。
簡単なことばかりだったけど、携帯で名前と会話をした。名前は両親と兄の四人家族で、猫を三匹飼っていて、お父さんはサラリーマン、お母さん…つまりおばさんはあのコンビニの店長、六つ上のお兄さんは社会人二年目。美容師らしい。家は俺んちからわりかし近所で、薄桜西高校に通っている。耳が聴こえなくなったのは一昨年の冬のことで、学校は友人の力を借りて何事もなく過ごしているらしい。他では千鶴も力を貸してくれるという。へいすけ君は?と聞いてきた彼女に、平助でいいよと伝え俺のことを教えてあげた。携帯で文字を打つ様子を横から覗き込む名前。近い距離に胸が高鳴った。



110425
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