最近僕の可愛い可愛い奥さんの名前の体調が優れないみたいだ。風邪なんてめったに引かないのに珍しいこともあるもんだ。今日病院に行ってくる、とさっきメールが入っていた。吐き気が酷いだけで熱は無いらしい。ただ具合が悪いだけだと良いんだけど、何か悪い病気だったらどうしようかと思うと仕事にも集中出来ないでいた。



「総司、ここ違ぇぞ」

「あ〜すみません。直ぐに直しますよ」

「…どうした」

「え、何がですか」

「あ?ずっと上の空で何が何がですかだ」



上司の土方部長は僕がミスした書類を差し出しながら、相変わらずに眉間に皺を寄せる。書類を受け取った僕は「何でもありませんよ」と誤魔化してデスクに戻った。



「どうしたんだ?総司が凡ミスなんて珍しいな」

「左之さん…」



ミスを直していると隣のデスクに座る同僚の左之さんが、自分の書類から目を放さずに話掛けてくる。僕が作業を止めて机に平伏すと、そこで左之さんも手を止めてこちらを向いた。



「最近僕の奥さんの体調が優れないんだよね…」

「人間誰しも体調が優れない日ぐらい一日二日はあるだろうが」

「もっとだよ。もう一週間くらいかな」

「症状は?」

「吐き気」

「…それって、おまえ」



目を見開いた左之さんは何か言いかけて口を噤んだ。僕はハテナマークを浮かべたけど深くは追求しなかった。だって左之さんは「本人から直接聞かなきゃな」って言ってるし、いずれ僕も知ることなのだろうからね。兎にも角にもずっとこうしてる訳にはいかないから、さっさと仕事を終わらせて帰ろう。




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結局左之さんが帰ってから二時間後の7時過ぎに会社を出たため、家に着いたのは8時頃。早く名前の手料理が食べたくて急いでドアノブを回す。「ただいま」いつもあるはずの出迎えは無く家の中は真っ暗だった。パチン。リビングの電気をつける。照らされた部屋にはフローリングにうずくまる名前の姿があり、近くには割れた花瓶の破片と花と水が散らばっていて。



「……総司」



顔を上げた彼女の頬にはくっきりとついた涙の跡。ついさっきまで泣いていたようでまだ微かに濡れている。名前は僕と目が合うとまた目尻に涙を溜めてついには溢れ出す。僕は涙を拭いながら優しく何があったのか問いかけた。



「お腹に、赤ちゃんいるって言われた」

「…赤ちゃん?」

「うん」

「嬉しくないの?」

「嬉しいよ。総司との赤ちゃんだもん」

「じゃあどうして名前は泣いてるの?」



黙り込んだ名前。先を促すのはよくないと思い話し出すまで頭を撫でてやる。するとやがて名前はぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。



「親になるのが、怖くなったの」

「怖い?」

「ちゃんとっ、赤ちゃんを育てられる自信もなくて…っ先生が“おめでとうございます”って、言ったの!頑張ろうって思った!でも何が“おめでとう”で何を“頑張る”のか分からなくなって…!ごめんっ、ごめん総司…っ、私赤ちゃん産むのが恐いのっ…」

「名前…」



僕には名前の感じる“恐怖”が分かるはずなくて、泣きじゃくる彼女にかけてあげる言葉も見つからない。ただ



「…僕は産んで欲しい」

「でもっ」



産んで欲しいと思った。せっかく授かった命を大人のエゴで殺してしまうのは可哀想で、何より僕の、僕たちの子供だから。



「ここで子供をおろせば君は一生懸後悔をその身に背負ってくことになる。それは名前も分かってるよね?」

「…っ」

「新しい命を授かったのは君にとって大きな意味のあることなんだ」

「…うんッ」

「一緒に頑張ろう。きっと、産んで良かったと心から思えるから」

「うんっ、ごめんなさい…ごめんなさいッ」



名前はお腹を抱えてまだ見ぬ我が子に謝罪を繰り返す。ごめんね、ごめんね、そして、ありがとうと優しく掌を添えた。その上に手を重ねるとドクンと小さい鼓動の音を感じた気がした。嬉しくなって名前を抱きしめて、そして二人に心からのありがとうを呟いた。



優しい命の音がした


――10ヶ月後。

無事元気な女の子が生まれた。汗に濡れた彼女の前髪をかき分ける。涙ぐむ僕を見た名前は幸せそうに微笑んだ。

「総司、ありがとう」

ありがとうと告げるのは僕の方だ。産まれてきてくれてありがとう。産んでくれて、本当にありがとう。


御題拝借:たとえば僕が
(110306)
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