北の地にある彼女の故郷は、澄んだ空気と緑豊かな場所にひっそりと存在していた。そこに流れる川の水は羅刹になった俺の身体に少しずつ良い影響を与え、今では以前と変わらない生活を送れるまでに回復した。
ここには、これまでの争いが嘘のようにゆっくりとした時間が流れ、疑ってしまう程に穏やで静かな暮らしがあった。
全てが終わり時代が大きく変化して、俺たち武士は刀を捨てた。武士が必要なくなった今、刀は何の意味も持たないただの凶器に過ぎない。俺にとって生きる意味だった刀を失うのは死んだ事と同じだ。それでも刀を手放したのは、名誉や地位や誇りなどではない、唯一つの守りたいものが出来たから。
この手は多くもの命を奪ってきた。罪の無い人間だって何人も殺してきた。だからこそこれからは刀を握る為にこの手を使うのではなく、愛する女を幸せにする為に使いたい。刀の無い人生を、彼女と二人で歩んでいきたい。そう強く願ったんだ。


「……………」

俺には今悩みがある。それはそれは深刻な。
俺は今最愛の彼女と、彼女の故郷で暮らしているんだが、なんというか、まだ俺たちは正式な夫婦じゃない。ただお互いが好き合っていて何となく一緒に居るってだけ。今のままでも十分幸せだし、アイツがいれば俺は何もいらない。
だけどアイツは違うんじゃないかって最近思うようになった。アイツは夫婦っていう、二人を繋ぎ止める形を欲しがっているのかもしれない。
結婚。俺には迷いがあった。
ここの自然が身体に好くても羅刹には変わりない。いつ死ぬか分からない命の期限に、もしかしたら明日死ぬかもしれないと見えない恐怖に怯えながら毎日を生きる。アイツには約束された未来があっても、俺にはそんなものはない。夫婦になっても一生一緒にいてやることは出来ないんだ。
だったら最初から縛る必要なんかない。一緒にいてくれる奴と夫婦になった方が、アイツにとっていいのかもしれない。

「………」

一人じゃ考えも纏まらないし結論も出ないので本人に相談してみる事にした。



「俺は今のままでも幸せだけどお前はやっぱり俺と、そ、その…夫婦になりたいと思うか」

昼食を食べ終えて茶碗を洗う彼女の背中に問いかけると、驚いたような顔をして振り返った。

『どうしたの?急に』
「いいから!」
『それは…もちろん平助君と夫婦になりたいって思うよ』
「そ…そっか」
『…』
「…そうだよな…」
『…』
「…」
『ねぇ』
「…ん?」
『どうしたの?急にそんな事聞くなんて』

急なんかじゃない。俺なりにずっと悩んでいたつもりだ。どうすればお前を泣かさずに済むか。どうすればお前は幸せになれるのか。

知らず知らず強く握り締めていた拳を、彼女の手が優しく包み込む。するとフッと自然に力が抜けていった。その手を包み込む両手は暖かくて落ち着く。

『話して。全部、全部、受け止めるから』
「………俺は、お前を幸せにしてやれる自信がないんだ」

小さな子供をあやすような声色に促され、ポツリポツリと言葉を溢していく俺。その言葉を、彼女は静かに聞いてくれていた。時には相槌を打ち、握る手に力を込めたり。
全ての不安を打ち明けた頃には俺の頭はすっかり下を向いていた。彼女の顔が見れない。

『平助君、顔上げて』

それでも上げる事は出来なかった。

『ここに来る前は沢山の出来事があって、その度に平助君には守ってもらってた』
「…」
『油小路でその命が終わろうとしてた時、皮肉にもあの薬が平助君を救った。そして、助かった命をもう一度失いかけた。でもそれでも助かった。何度も何度も何度も、本当だったら死んでいた筈の貴方が今も生きているのは、その力のお陰。その力が"生"と"私を守ってくれる力"を平助君に与えてくれた』
「生、と…力…」

彼女の言葉が胸の奥に染み込んでいくのを感じる。そこが暖かくなって、目が涙で滲む。

『私より早く死んじゃうかもしれない。私を残して消えてしまうかもしれない。一生幸せに出来ないかもしれない。でも、』

ポタ、ポタ。涙が静かに頬を、顎を伝って服に染み込んだ。

『私も十分に幸せなんです』
「……!」
『今が、この瞬間が、私の宝物なの。明日続くか分からない幸せだけど、ずっとずっと、許される時間の中で、私は貴方といたいの』
「っ…、」
『だからお願い。そんな風に羅刹だからって自分を苦しめないで。平等に人を愛し愛される価値はあるの』
「うん…っ」
『私が平助君を愛すから、だから、もう泣かないで』

ごめん。その言葉は嗚咽に紛れて言えなかった。そして俺はやっと顔を上げる事が出来た。
彼女も同様に泣いていた。ただいつもと違うのは、とても優しい笑みを浮かべていた事。
そう言えば出会った頃から泣き虫だった。俺が泣かせる事が多くて、傷付けてばかりだったような気がする。それでも俺たちが一緒にいるのはお互いが選んだ結果なんだ。
俺たちはこれからもきっとずっと一緒にいるだろう。命ある限り永遠に。

「遅くなったけど、良かったら俺の奥さんになって下さい」
『はい。喜んで』

涙を流した分だけ俺が必ず幸せにしてやるんだ。

『一緒に幸せになろうね』

そして、この世界の誰よりも幸せになろう。


泣き虫なあのこのちいさな願い

曰はく、さま企画提出(111209)
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