ぼんやりとした月の光に照らされた、黒光りする廊下を歩く。膨大な量の書簡を片した身はひどく重い。いつものこととはいえ、明日もまた大量の書簡と向き合わねばならんのかと思うとさらに身が重くなるような気がした。ため息のひとつでも吐かなければやっていけない。私室の扉が見えたところで再びため息を吐き悶々とした思考を止めた。こんなことを考えていても明日はやってくるのだからさっさと休もうと私室の扉を開けると、よく見知った顔の女が佇んでいた。退屈そうに足をぶらぶらさせていたその女は、司馬懿の姿を認めると途端に黒曜石の瞳を細め嬉しそうに笑う。司馬懿はその状況を理解するのに暫くの時間を要した。

は?意味がわからん。自分の目を疑うとはこのことだろうか。

「は?」

今度は音に乗せてそう呟いてみるが、それで状況が変わるわけでもない。理解し難い状況に司馬懿は無言で扉を閉めた。
あの女は司馬懿の弟子であった。それだけならば、さして問題はない。何故こんな夜更けに私の部屋にいる夜這いでもしに来たのかフハハハハ馬鹿めが!とでも言って追い出せばいい話だ。それで済むならとっくにそれをやっているのだが、そうもいかない。あれは此処に存在する筈がないのだから。
ではあれはなんなのだと私室の扉の前でブツブツと呟く司馬懿の姿は異様であったが、幸い夜中ということもあり誰かに見られることはなかった。
きっと私は疲れているのだろう、そうだそうに決まってる。そう判断し再び扉を開けたが、依然女はそこにいた。

「ひどいじゃないですか、先生。いきなり扉を閉めるだなんて」

拗ねたように頬を膨らませる彼女に、司馬懿は完全に固まった。

「うわ、私結構長いこと先生の傍におりましたけど、そんな表情初めて見ましたよ!見事なアホ面…っと、失礼。とても驚きに満ちた表情ですね」

ま、無理もないですけど。そう肩を竦めた女を司馬懿は無言で凝視した。まるで状況が理解できない。

「とりあえず扉閉めたらどうですか?」
「…あ、ああ。そうだな」

扉を開けたままで固まっていた司馬懿は、失礼する、と呟いて部屋に入り扉を閉めた。…いや待て、此処は私の部屋なのに何故私が失礼するなどと言う必要がある。

「いやあ、久しぶりですね先生」

こちらのことなどお構いなしに能天気にへらりと笑ってそう告げる女に、司馬懿はため息を吐いた。

「あれ、私のこと覚えてますよね?先生のかわいい愛弟子のおなまえですよ?」

覚えている。忘れる筈がない。いつも馬鹿みたいにへらりと笑っていて、私がどんなに突き放そうが怒鳴ろうがついてきた。ただの馬鹿かと思えばそうでもない、なかなか頭の切れる食えない女であった。その癖口を開けば「好きです!」だの、「結婚してください!」だの、下らぬ戯言ばかりを言ってきて、そのたびに怒鳴っていたものだ。表情がころころと忙しく変わる。表情から癖まで、全部、全部、覚えている。だが、

「何が愛弟子だ馬鹿めが。…大体何故貴様が此処にいる。貴様は先日流行り病で死んだ筈だが?」

そう、そうなのだ。目の前にいる女はここに存在する筈がないのだ。では何だ、物の怪だとでもいうのか。

「そうなんですけどね、なんか成仏できてないっぽいですよねえ」

困りましたねえ、と全然困っていないようにへらへら笑う女に、司馬懿はもう何度目かもわからないため息を吐いた。それはもう身体中の空気を吐き出すほどの盛大な溜め息である。私の前世は溜め息ですなんて言われたら頷いてしまいそうだ。

「そう言うわけなので、これからまたお世話になりますね」

どういう訳だ馬鹿めといつものように怒鳴りつける気力は司馬懿には残ってはいなかった。
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