はらり。桃色の花弁が風に乗りゆっくりと落ちていく。城下はいつも以上の賑わいで、周りの喧騒が耳に痛い。自分は何故、こんなところにいるんだったか。
「夏侯惇さま？どうなさったのですか？」
此方を心配そうに見る名前に、中途半端な位置に向けられた視線を彼女に向ける。
「すまん、ぼうっとしていた」
「もう、せっかく一緒にお花見に来れたのに！」
「すまんな」
そうだ、彼女が花見をしたいからと、わざわざ城下まで来たのだった。
拗ねる彼女にもう一度謝り、再び先程追っていた花弁を探すが、それはもうたくさんの花弁に紛れて、見つけることはできなかった。
「本当にどうしちゃったんです？桜じゃなくて落ちた花弁ばかり見るなんて」
「そういう名前こそ、目より手が動いているようだが？」
「あ、夏侯惇さまも食べたいんですね？」
両手に持っていた桃まんのひとつをずいっと差し出してくる名前に、そうではないとやんわりと断る。その代わりにと、用意されていた酒を口に含んだ。
「大体、何故わざわざ城下まで来たんだ。花見は城で幾らでもできるだろう」
「だって、約束したじゃないですか。春になったら、一緒に城下でお花見しましょうって」
「城でもいいだろう」
「だって私、あんまり外に出れないから、城は飽きちゃったんです。城下でお花見したかったんですよ」
名前は病弱で、あまり外に出ることができなかった。まだ雪が降り積もっていた冬の夜に、お花見をしようと約束したのを遠い昔のように思い出す。冬を越すのは難しいと医者に言われていたらしいが、彼女は今こうして隣にいる。
「ふふ、良かったです。夏侯惇さまとお花見できて」
「ああ」
「私、夏侯惇さまのこと、お慕いしております」
突拍子もなく告げられた言葉に、危うく口に含んだ酒を吐き出しそうになった。
「なんだ、唐突に」
「一緒にお花見できたら、言おうと思ってたんです」
ざわり。あたたかな春風が吹き、地に落ちていた桜の花弁が舞い上がる。いつの間にか城下の喧騒は消えていて、夏侯惇と名前の二人のみになっていた。
「夏侯惇さまとお花見できて、本当に良かったです」
これでもう、思い残すことはありません。笑いながら告げられた言葉の意味がわからず首を捻る。よいしょと腰をあげた名前は、未だに舞っている桜の花弁の中で微笑んだ。どこか哀しげなその笑みに、ざわりと自分の中のなにかが揺れた。
「そろそろ、帰りましょうか」
「なんだ、もう帰るのか。もう少し――」
駄目ですよ。夏侯惇の台詞を遮り、彼女はいつものように困ったような笑みを携えそう告げた。
「夏侯惇さまは、もう起きなくては」
ゆらりと舞っていた桜の花弁が、突然ぶわりと巻き上がる。
「私の我儘に付き合って下さり、ありがとうございました」
駄目だ、引き留めなければ駄目だ。今引き留めなければもう彼女に会えない。それは確信に近かった。しかしその意思に反して、意識が遠退いていく。
「夢でも、お花見できて本当に良かった…これで未練なく、逝くことができます」
ああ、そうだ。俺は彼女の願いを叶えられなかったのだ。桜が咲く前に、彼女は息を引き取ってしまったから。
意識が途切れる刹那、最後に見た名前は、花弁に包まれ柔らかく微笑んでいた。
ゆるやかに崩れ落ちる春のはなし