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また彼女は…、自分の前から消えようとしているのか
自分勝手に、あの時のように考えて、また、勝手に…
許せないと思った。けれどそれ以上に、今ここで彼女を逃せば、その姿を未来永劫認知することなく、日々を過ごしてしまうのが怖かった。
決めるより先に、身体が動く。それと同時に彼女が駆けだす気配を感じた。逃げようとしてる、逃がしてなるものか
見えてきた背中に、その細い腕が引き戸へと延びる前に、その手首をつかんでドアへと押し付ける。派手な音がした。けれど、ここは人気のない第三図書室であり、その周辺にも人気が少ないことは、燃えるように血が逆流する頭の中でも理解していて、遠慮などなかったと思う
「やくそく、やぶるんだ…」
「―――っ、俺はもう、君に関しての後悔は、したくない」
弱々しく吐かれた声に、煉獄はそう返す
ああ、そうだ。後悔ばかりだった。
もしもあの時あの日あの場所で、君の顔が見たいと告げなければ、任務へと赴かなければ、もっと早く起きていれば、君と笑いあい、手を取り合って、―――、生涯を、共にする道が、あったのではないか…?
君にはわかるだろうか、たった一度だけ、笑っている君が、たった一度だけ、列車の端で躰を震わせる姿を見た時、俺は確かに君に見とれたんだ。月に溶けてしまいそうな、儚くも美しい笑みに、心奪われた。鬼殺隊の柱であろう俺が。それ以上前から、言葉を交わすたびに、情が膨れて、取り返しのつかないところまで行ってしまってて…。その矢先に、君は俺を庇い、自らの生を諦めて死んでいった。自分勝手な君を、俺は死ぬまで想ってた。
君が最後に残した言葉に縋りついて、奮い立たせて、俺はあの世界を生きてきた
「君が、君が言ったんだ。君が望んだ。幸せにしてくれと…。ならば、俺は俺の責務を全うする…!それが俺の責務ではなくても、君を幸せにするのは俺だっ、俺の、役目だ!」
「そ、んなの、死者の戯言じゃないか…」
掴んだ手首が抵抗するような弱々しい力で押し返される。それを許さないと言わんばかりに、さらに強い力で握られ、彼女の眉がよった
「俺は、その死者の戯言であの時代を生き抜いた男だ。」
苦し気に告げられたそれに、彼女の握っていた掌が緩んだ。うつむきながら、どこか、泣きそうな声で、彼女が口を開く
「生徒と、教師です」
「ああ」
「年の差があります」
「ああ」
「…死者の、戯言だったんです。幸せに、なりたかった。夢を見たかった。別に、あの言葉を本気にしなくてもよかった」
「そんな、悲しいことを言わないでくれ」
己よりも細い首に指を這わせ、煉獄はそっとそのまろい頬を包み込み、目を合わせた。
初めてでた彼女の顔は涙で濡れていて、唇を噛みながらも、けして目線をそらさずに言う。
「馬鹿、だなぁ」
「馬鹿でもいい、…それでも俺は、あの言葉を逆手にとってでも、君をこのように泣かせても、君を手に入れたいんだ」
百年以上前から恋焦がれていた。
だからどうか、頷いてくれと。懇願する。その細い体躯を抱きしめた。煉獄は彼女にそう願い、逃がさぬよう、腕に捕らえ、返事を待った。
「―――私で、良ければ、その台詞をたがわずに、今の生も、来世も、幸せにしてください…。」
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