▼ 主人公が引きこもっていた時の煉獄の話
スンスンと、この屋形の主が泣いていた。その光景は半年前から変わらず、まるで別人のようにおとなしく涙を流す。わずかにともった灯篭の明かりが人物の美しい顔を照らし、その居場所を告げた。横にはまだ温かい白米の握り飯に湯飲みに入った茶が置かれ、己の前に誰かが様子を見に来たことが確認できる。
半年前とは違い、ただ虚空を見つめて布団にくるまる男は、現役(といってもまだ柱)の頃とは比べ物にならないくらいには大人しい。どうせ何もしても反応しないのだ。心をどこかに置いてきてしまったように。けれど煉獄にはそれがひどく腹正しかった。声をかけても、身体をゆすっても、刀を向けても男はただ何も宿らぬ瞳で己を見つめるだけ、その瞳からとめどなく涙が溢れてはいるが、ただそれだけ。食事すらとらぬ男に食事をとらせるのが、いつしか煉獄の役割となっていた、
灯篭の横にある握り飯を引き寄せてから布団にくるまって泣く男を引きずり出す。閉じこもっているくせに細くならない体躯の理由は知っていた。この男は、自決騒動を起こして以来毎日来る己の師範の手紙の訓練をしているらしい。柱や親しい人間がおらぬ間に湯あみも済ませてしまう。人間の尊厳は守っていろ。といつも締めくくられる手紙。普通の剣士では行えない過酷な訓練内容。けれどそれが終わればまた男は泣き暮らす。ただ、師範の言葉を機械的にこなすだけだ。けれどそれすら腹正しい。どうして己の言葉は届かないのに、師範の言葉は届くのかわからなかった、
腕の中でただ涙を流し呼吸する男は人形のようだ。けれどそれすら美しい。―――活き活きとして任務をこなしていた頃には届かなかったとしてもだ。この半年、この男に対して無体を働く者がいた。幸いなことにいつも誰かが通り、事なきを得るが、それでもこの男の容姿は人を狂わせる。すでに狂わさせられた己が言うのだから間違いない。あの頃に戻ってほしいと思う、けれど戻ってしまえばもう簡単には触れられないことを知っている。近くに置いていた握り飯をその口元に持っていけば、うつろな目をしながらも、小さく食む。
その姿に少しだけ、スッとした。
己がいないと飯すらも自分で食べない。この男を生かしているのは自分だと思えばひどく気分がよい。それがどれほどまでに醜い感情か知っていたとしてもだ。一通り食べたのを確認してから湯飲みを差し出したが飲もうとはしなかった。それを咎めることはしない。
強制的に通せばいい。
酷く単純なことだ。まだ少し暖かい茶を煽り、そのまま男に口づける。たまに正気に戻り暴れることもあるが、今日はその様子がなかった。流し込めば、確かに喉が上下する。つぅっと顎を伝う茶なのか唾液なのかわからないものを舐めとって、半分に減るまで繰り返す。
「は、ぁ…」
少し息を整えてから煉獄は食事を終えた男を見る、息が出来なかったのか少し頬が赤く、灯篭の光で照らされた唇が蠱惑的で、知らずに唾を飲んだ。
そして知らずのうちに呟く
「もしも君が君を捨てるなら、その時は、俺にすべてをくれ」
どうしようもない男だろう、己は。
意識をすて、人形のようになった君にしか想いを告げられない臆病者。けれど時たまにどうしようもなく思うのだ、たとえ想いを通じ合わせることが出来なくても、また笑って、この男らしく生きていてくれればと、ひどく思うのだ。
だからこそ
「おいテメェ。誰の宝に向かって無体働いてんのか分かってんのか」
その姿を見たときは心躍ったし、御屋形様に直訴した。
―――もしも、守柱が合同任務に参加するときは、ぜひ己を!
そう、ひどく幸せなのだ自分は、また彼と戦えて、またその姿をこの目に焼き付けることが出来る。
――――そして、いつかはこの手に。この男を、収めたいと思った。
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