07 優しい背中の彼

 学校に戻って色々と感傷的になっていても、やるべき事は山積みになっていて。1ヶ月の欠席は当然勉強面でも痛手になっていた。協力的な友達のおかげで休んでいた分のノートは確保されたけれど、元々苦手な数学が足を引っ張る。
 その上、事故による欠席を少しでも補填するべく、合宿や大会で授業を欠席した運動部の補習授業に混ぜられていて、気まずい事この上ない。

「だめだ……このままだと危ない」
「大丈夫だ。オレも危ない」

 なかなか進まない数学の課題を前に音を上げれば、隣に座った隼人君が笑顔で私にプリントを見せる。私と同じくらい白紙に近いプリントをヒラヒラと揺らしていた。

「オメーは学校来てただろーが!バァカ」

 前の席から形の良い荒北君の頭が急に振り返る。運動部だらけの補習に参加したら、松葉杖に視線が集まり、陸上部に至ってはお葬式並みの空気になってしまって。思わず、教室の入り口で足を止めたら後ろから来ていた隼人君や荒北君に連れられて、窓際へと追いやられていた。

「ミョウジさん、1ヶ月休んでいた割にはオレ達よりもノートが充実しているな。ちょっとオレにも貸してもらえないか」
「友達が休んでいた分、手分けして私の分も作ってくれたの」

 前の席には荒北君、横には隼人君。後ろの席には東堂君。ちなみに荒北君の隣は福富君と周囲を自転車競技部の早々たるメンバーに囲まれていて、授業の合間も賑やかだ。
 後ろの東堂君にノートを見せれば「良い友人を持ったな」とにこやかに笑う。
 補習授業の休憩時間にすら課題を片付けたいのは時間が惜しい運動部にとっては皆が同じ。私はそもそも与えられている課題の量が倍以上あるから違う意味で頑張らないといけなかった。
 数学の参考書を片手にプリントと睨み合えば、荒北君が振り返って、私の白紙に近い数学プリントを見ていた。

「あ、荒北君」

 やばい、馬鹿だと思われたくない。その一心で慌てて参考書で隠そうとしたけれどバレバレで。目を細めてジロッと見られると視線を逸らしたくなる。

「数学教えてやっから、英語教えてくれナァイ?」

 前の席の荒北君が間違いだらけの英語のプリントを片手にニヤッと笑う。私の机の上から同じ英語のプリントを覗き込むと「オメー、休んでた割に英語出来んのなんでだヨ」と苦々しく呟く。

「入院中、一応教科書と参考書持ってたから。でも数学がほんと苦手で」
「ハッ、入院中に教科書とか持ってくとかお利口ちゃん過ぎんだろ。オレならぜってーやらネェ」
「退院してから現実見てやばそうだけどな」
「ウッセ!」
 
 普通に私の入院生活や怪我の話を荒北君や隼人君は話題にしてくれる。こうやって、普通に話題にしてくれる方が気は楽だ。荒北君は適当な感じなのにわかりやすく数学を教えてくれる。思わず、的確な教え方に感心しながら問題と向き合えば、参考書を見てもわからなかった問題が解けた。

「あ、解けた。荒北君すごい!」
「アァ?解いたのはオメーだろ」
「靖友。オレはまだ解けない」
「テメーは自分でやれ、新開。っつーか、コレ。意味わかんねーんだケドォ」
「どこ?」

 荒北君の英語のプリントを受け取って、問題と見比べる。持ってきた参考書の解説を見せながら、出来るだけわかりやすく説明すると荒北君が私の手元を真剣な目で見つめていた。

「へー。なるほどネ」

 走り書きみたいに荒北君が書いた答えは合っていて、理解が早いんだなぁと感心する。頭の回転がいいんだろうな、と思っていると、また次の問題で顔を顰めていたのが可愛かった。

「あ、次の問題はね」
「ミョウジさん、そんなに荒北の面倒見なくてもいいぞ」
「ウッセーヨ!大体、フクちゃんが見せてくれねーから」
「荒北。自分の課題は自分でやれ」
「寿一、オレには数学見せてくれないか」
「いや、だからテメェは自分でやれヨ!」

 中学の時とは変わらない淡々とした福富君も飄々とした隼人君も。それに的確なツッコミを入れる荒北君はとても楽しそうで、自転車競技部の仲の良さが伝わってくる。思わず4人の顔を見比べて笑ってしまうと不意に誰かが視界を遮った。

「なんだ。ミョウジ、元気そうじゃん。もっとへこんでると思った」

 急に掛けられた声に驚いて顔を上げれば同じ陸上部の同級生。乾いた笑いを向けられて、思わず視線を伏せてしまった。

「急に学校来ねえし、来たら松葉杖でこっちは心配してんのにさ。ヘラヘラ笑って元気じゃん。そんな元気あんなら、部活に顔ぐらい出せよ。走らなくてもやれる事あんだろ」
「……ごめん」

 怪我をしてから一度も部活には顔を出していないのは事実で。どこか苛立った言葉に何も言えなくなる。自転車競技部ほどではないけれど、箱根学園の陸上部はそれなりにインターハイの常連校で学校の名前を背負っている。結果は出せていなくても、私も名を連ねていたからかかるプレッシャーは分かっている。この時期、どれだけ部員が頑張っているか、追い込まれているか知らないわけじゃない。同級生を支える事も部員の一人としては必要な事だとも思う。

「走りたくても走れないヤツに何やらせんの」

 もう一度、ごめんと謝ろうとした瞬間、荒北君の声が重なる。思わず顔をあげれば荒北君は静かに目を細めて、陸上部員を見ていた。声を荒げたわけじゃない。むしろ静かな物言いで、けれど確かに怒りが滲んでいて。鋭い目つきで睨まれた陸上部員が言葉を返せないままでいると先生が戻ってきて授業が始まった。
 ほとんど進んでいない課題とは裏腹に、内心授業が始まって安堵する。荒北君の背中を見つめながら、鞄の底に押し込んだ退部届を思い出す。入院中、これから部活をどうするのか、ずっと迷っていた。
 私が立てなくなった場所に立つ誰かを応援できるほど、自分の気持ちに整理は出来ない。風と土の匂いのするグラウンドが好きだった。だけど、そこにはもう自分の居場所はなく、最後の夏はもう私には遠い場所だった。

「ミョウジ、顔色が悪いが大丈夫か」
「大丈夫です。課題が多すぎて死にそうなだけなんで」

 先生に笑って返事をすれば、教室の中に笑い声が零れる。一瞬振り返った荒北君が、目を細めて「バァカ」と小さく呟いて丸めたプリントで私の頭を軽く叩く。ほんの少しも痛くなくて、逆に頬が緩んだ。
 その日、補習授業の帰りに職員室へ寄って退部届を出した。その後、部室に顔を出して、こんな形で先に引退することを謝り頭を下げる。引き止められたり、色んな事を言われたけれど「走れないのに、ここにいるのはちょっと辛い」と告げれば、それ以上は何も言われなかった。ただ、静かに泣き出した同級生や後輩を見て、ごめんと謝るしかない自分が弱くて情けなくて、空しい。

「本当に辞めるのかよ」

 教室で声をかけてきた部員に腕を掴まれても、静かに頷くしか出来ない。不意に顔を挙げれば、部室には去年の県大会で優勝した時の写真が飾ってあって、自分の笑顔と目が合った。今でも鮮明に覚えている。誰よりも早く、1番に駆け抜けるあの瞬間は、たまらなく気持ちが良くて世界が輝いて見える事を。
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