04 泣くのが下手な彼女

 怪我ひとつで今まで積み上げてきたものが崩れる現実。その腹立たしさも、苛立ちも、怒りも知っている。今でも忘れたことはなくて、空しさとか、やるせなさとか、いろんな思いがぐちゃぐちゃに入り混じった過去はそんなに遠いものじゃない。
 
「そうだなァ、インターハイは無理だ」

 凪いだ瞳が一瞬大きく見開かれて、苦痛に歪む。泣きそうなツラなのにミョウジは泣かなかった。泣かせたかったわけでもなければ、泣き顔が見たいわけでもない。かける言葉を間違えたと思いながらも、黙っているのは性に合わなかった。

「……悔しいよなァ」

 自分でも他にかける言葉があるだろ、と思わないわけでもなかったがうまく言葉が見つからない。オレが言われたら、多分相手をぶん殴ってたぐらいに安い言葉だった。

「……悔しいって言えないんだよね」

 ミョウジは引きつった笑顔をオレに向けた。一瞬、言えない悔しいって言葉を飲み込むみたいに喉を鳴らして。

「……ロードワークの時に、ぶつかった自転車は中学生だったの」

 ミョウジの声は淡々としていたが、かすかに震えていた。話すべきか迷っている……とでも言いたげに視線が泳いだあと、ゆっくりと真っ直ぐにオレを見た。

「私も音楽聴きながら走っていて、自転車に気づかなかった。タイムも全然伸びなくて、考え事もしてた。曲がり角でぶつかって、気がついたら病院で。中学生の子がさ、親と一緒に来て泣きながら謝るの。向こうだって手術にはならなかったけど、腕骨折してるのに」

 ミョウジの瞳に涙が滲む。震える声を絞り出すみたいにTシャツの胸元をぎゅっと握りしめていた。

「親もさ、そんな状況なのに私の足見て泣くの。心配してくれてるのもわかってるけど……でも、私がちゃんと周り見てれば事故にならなかった。それに、靭帯はもともと痛めてたから、骨折しなくてもインターハイは無理だったかもしれないって、手術した先生は言ってた」

 ミョウジは誰かを責める言葉をひとつも口にしない。悔しいって言葉が言えないのは、自分の責任を感じているんだろう。

「……悔しいより、情けないんだよ」

 それが、ちょっとツラい。そう言って、視線を伏せたミョウジは苦笑いを浮かべると、蓋を開けたプリンに手を伸ばして食べ始める。泣き言はもう言わないとばかりにプリンを食べて「美味しい」と笑った。

「今のはちょっと愚痴。内緒ね」
「別に誰にも言わねェヨ」

 ミョウジの手からプリンを横取りして、残りの半分をカップごと傾けて食ってやった。甘酸っぱくて美味い。一瞬、ポカンとしたミョウジに空のカップを押しつける。

「……このプリン、二層になってて下の方が美味しいのに」
「アァ!?知るか、ボケナス。シミったれたツラで食ってんじゃねーヨ」
「……荒北君のバカ」
「ンだよ!」

 ボソリとバカと呟いたミョウジを軽く睨めば、ボロボロと泣きだして。何で泣くのが今なのか、訳がわからず言葉が出ない。

「ミョウジァ、プリンとられて泣いてんじゃねーヨ」

 泣き出した理由なんてプリンじゃねぇのぐらい鈍感なオレでもわかってはいたけれど。感情ぶちまける事も今のミョウジには必要なんだろう。泣き顔をじっと見ているのも気まずくて、背中を向けた。ベットがギシリと音を立てたあと、背中に感じたのは温かい感触。躊躇いがちに背中に押しつけられたミョウジの頭に鼓動が跳ねる。ブレザーを控えめに握り締めている両手が震えていて、堪えきれない嗚咽が大きくなった。泣きじゃくるミョウジに背中を貸しながら、どうせなら腕くらい貸してやればよかった、なんて思う。ブレザーの端を握っている両手に、ぐいぐいと引っ張られるのが落ち着かなくて、手首を掴んで体に回せば思ったよりもずっと小さい手だった。
 グラウンドを走っているミョウジはギラギラした目で前を向いて、地面を蹴り上げて前に進んでいた。走っている時、口元に笑みすら浮かべて風を切って走る姿をカッコイイと女子は言うけれど、背中でベソをかいているミョウジは王子でも何でもなく、ただの泣くのが下手な女子だった。ふと思うのは、こいつはもしかして怪我をしてから泣いたのは初めてなんじゃないかってこと。わざわざ聞くのも気が引けて、うっかり握ったままにしているミョウジの手をぼんやりと眺める。上から握り込んだら、すっぽりとおさまるぐらい華奢な手を握りながら、柄にもなくお節介を焼いている自分に驚いた。
 泣いて、泣いて、ひとしきり泣いて。そりゃもう見事にミョウジの涙で、ぐしゃぐしゃになったオレのブレザーの背中を見て、ミョウジは真っ赤になっていたけれど、どこかスッキリした顔で笑う。

「荒北君、制服ぐしゃぐしゃにして、ごめん……」
「ったく、背中ビショビショなんだけどォ」

 ブレザーを脱いで広げれば見事に涙の跡。腫れて赤くなった目は痛々しかったが、ごめんと笑うミョウジの顔は穏やかだった。そろそろ帰るかと立ち上がれば、ミョウジが見送りについてくると言うので、お断りする。いかにも泣きました、って顔でついてこられたらさすがにイヤだ。

「顔、ひどい?」
「……鏡見ればァ」

 慌てているミョウジの頭を軽く撫ぜると、ふにゃりと笑う。

「荒北君、ありがとう」
「ケーキ、ごちそうサン」

 力の抜けたミョウジの顔を見て、どこかホッとした気持ちで病室を後にした。皺になったブレザーを広げながら、着てる間に乾くだろうと袖を通す。
 ゆっくりとペダルを踏み込みながら風を感じれば、寮に着く頃にはミョウジの涙の跡は乾いていて。ただ、ヨレヨレになったブレザーだけが残った。何かしてやれるわけじゃないし、何かを望まれているわけでもない。それでも、ミョウジが下手くそな作り笑いをするぐらいなら、いつでも背中ぐらい貸してやると言ってやればよかったなんて、今更思っても遅かった。
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