21 荒北君と彼女
体育祭の当日、照りつける太陽と乾いた空気の中、眩しいくらいに空は青く澄んでいた。想像以上にチアリーディングにはやっぱり苦戦を強いられて、クラスメイトの猛特訓のおかげで何とか形になった事は本当に申し訳なく思う。緊張しながらも、何とか皆と合わせることが出来て大きなミスもなし。引き攣った笑顔の写真は、その後もずっと笑われる事にはなったけれど、自分ではそれなりに気に入っている。予想通り、学ラン姿で応援団長をしていた東堂君は大人気で。あまりにも学ラン姿が好評だったせいか、そのまま競技にも参加していて、まるでアイドルみたいだった。
私はといえば、同じく学ランを着ていた隼人君に頼み込んで、荒北君に一度だけ着てもらい写真を撮る事に必死になった。最終的には隼人君と福富君に押さえて貰って無理矢理写真を納めれば、凄まじい形相をしていて、後から見返す度に荒北君の顔が鬼のようになっていた。
「すいません、一緒に来て貰っても良いっスか」
ちなみに借り物競走で、そう言って気まずそうに私に手を差し出したのは、自転車競技部の二年生。吊り目な目元が申し訳なさそうに下がるのを見て、とりあえず一緒にゴールへ向かう。その後方からは、同じく自転車競技部の一年生を背負った荒北君が猛追してくるから、思わず走って逃げてしまった。
「ミョウジ!オメー何やってンだヨ!」
「わー。荒北さん、やっぱり速いですね!黒田さん、捕まえましょうよ」
「……勝っても負けても、どうせキレられるんだろ。なら、先輩。このままゴールしても良いですか」
「あ、うん。良いけど」
黒田君、と呼ばれた二年生も足が速い。後方から怒鳴る荒北君を置き去りにしてゴールテープを切れば、黒田君は「ありがとうございます」と礼儀正しく頭を下げると、走って逃げていってしまった。渡された借り物競走のお題を確認すれば『先輩(後輩)の恋人に手を差し出す』で。二着でゴールした荒北君のお題は『手の掛かる困った後輩(先輩)を背負う』だったけれど、黒田君のお題を知ると真っ赤な顔でその場に座り込んでしまった。
「荒北さん、オレもう戻っても良いですかぁ?」
ニコニコと笑う彼はどこか楽しそうに荒北君に声をかけると軽やかな足取りで去っていく。途中、「真波くーん!」と名前を呼ばれていた彼は一年生らしい。
その後も荒北君は、不機嫌そうな顔をしていたけれど、それでもどこか楽しそうに見えた。
「ナマエちゃん、調子は大丈夫そう?」
「うん。平気。なんか久しぶりのリレーでちょっと緊張してるけど」
最後のクラス対抗リレーは配点が高い。これまでの得点の集計を実行委員が再確認するために時間をとっているから、始まるまでに時間がかかる。おかげで念入りにストレッチも出来るし、バトンパスの練習も出来た。
結局、私はアンカーを走る事になって、私の前を走るのは荒北君だった。
「やっと、一緒に走れるね」
「一年の時からしつこく言われたからナァ。オマエ、バトン落とすなヨ」
背中を叩く大きな手。鼻で笑うくせに、優しい顔をした荒北君が不意に私の頭を掴んで顔を上げさせる。
「ミョウジ先輩ー!頑張って!」
賑やかな歓声に思わず苦笑して、手を振り返せば荒北君は背中に触れた手で、そのままゆっくりとさすってくれた。後輩も、友達も、顔を上げれば皆が見ていてくれた。
「足の金属、冬に抜くンだろ。思いっきり走れるタイミングがあるなら、今だよナァ?」
「そうだね。再手術の後は、またしばらく松葉杖だから」
みんなが何で、アンカーに選んでくれたのかなんてわかってる。私の前を何で荒北君が走ってくれるのか、も。
「本気のミョウジナマエの走り、見せつけてやれヨ。高校最後の体育祭ラスト、先頭走ンのも悪くネェだろ」
「……うん。本気で走るよ」
リレーの選手は定位置につくように放送がかかって、荒北君は最後に強く私の背中を叩く。じん、と痺れるような痛みで鼓舞されれば、自然と握った拳に力が籠った。
リレーが始まって、歓声が聞こえる。懐かしい感覚。去年も一昨年もクラス対抗リレーは走ったけれど、こんな気持ちは初めてだった。
足首をゆっくりと回して呼吸を整える。怪我をしてから本気で走るのは初めてかもしれない。練習の時もどこか無意識にセーブしていて、力一杯走る事は出来なかった。リレーの行方を見守れば、うちのクラスは2位。荒北君にバトンが渡ってコーナーを曲がる瞬間に僅差で追い抜く。一際、歓声が上がった瞬間、無意識に彼の名前を呼んでいた。
「荒北君!」
真剣な眼差しで荒北君が走る。バトンパスゾーンで駆け出せば、最高のタイミングでバトンが手の中に収まった。
「行け!ナマエ!」
荒北君の真剣な声に背中を押されて。バトンを握り直して踏み込めば、足首に痛みはない。顔をあげて、前だけを見た。
周りからの歓声も、応援も、全部が背中を押してくれているような気がした。グラウンドを蹴る感覚も、風を切る感覚も。散々、いやと言うほど知っていたはずなのに不思議と新鮮で。
誰にも前を走らせたくない。先頭は誰にも譲りたくない。その気持ちは、いつだって忘れた事はなかったはずなのに。今、こんなにも先頭は気持ちが良い。
視界に広がったゴールライン。もう終わってしまうのかと寂しさすら感じながら、ゴールラインを越えれば歓声が聞こえた。
「やるじゃナァイ!」
満足そうに笑った荒北君を視界に見つけて、思わず飛びついてしまう。ここがグラウンドだとか、体育祭の最中だとか、冷静に考えたら頭突きが飛んでくると思ったのに。
ぐしゃぐしゃになるほど頭を撫でられて、一瞬だけ力一杯抱きしめられる。けれど、すぐに我に返ったのか慌てて引き剥がすと、荒北君は顔を片手で隠して視線を逸らした。
「……荒北君、この後どうしよう」
「オレに聞くなよ、ンな事知るか」
周りからの視線が怖くて、二人揃って視線を逸らせば駆けつけたクラスメイトにもみくちゃにされて、それどころではなくなった。
総合優勝を手にしたうちのクラスは驚くくらい盛り上がってしまって、大変だったけれど。打ち上げの話で盛り上がる教室から荒北君と二人少しだけ抜け出せば、なぜか今更恥ずかしくなってしまって、中途半端に距離をとってしまった。
どちらからともなく、伸ばして繋いだ手。言いたい事も、話したい事もたくさんあったけれど、繋いだ手が暖かくて、何だかもう何も言わなくても良い気がする。
「久しぶりに走って、どうだったンだよ」
「気持ち良かった。今でも、なんだか走りたい気分」
「そりゃ、良かったネェ」
廊下の窓を開けて、風を感じれば火照った頬が心地良い。少し日焼けした荒北君の顔を見上げれば、自然と笑みが浮かんでしまう。
「……ミョウジ、オレの顔見過ぎィ」
「好きだなぁと思って」
思わずへらりと笑ってしまってから、慌てて口を押さえる。絶対怖い顔をしていると思ったのに、荒北君は意外にも平然としていて顔色ひとつ変えなかった。
「ン、知ってる」
当たり前、みたいな顔で不意に顔が近付いて。頭突きの衝撃に備えて目を瞑れば、唇にふにゃりと柔らかい感触。下唇を柔らかく噛んで離れた荒北君の顔と辺りを見渡せば、廊下には誰もいなかったけれど。
「あ、荒北君、廊下でそういうことは……!」
「誰も見てネェヨ」
もう一度、近付いた唇が、からかうみたいに鼻先を掠める。荒北君らしくない行動だと反抗すれば、乾いた笑いを浮かべて「っつーか、泣き顔でリレーの最後に抱きついてきたオマエはどうなンだよ」なんて皮肉を言われた。
「アレはつい、勢いで」
「まぁ、そのままオレの事、大好きでいれば良いんじゃナァイ?」
「……荒北君、熱中症で頭やられた……?」
荒北君らしくない行動と言葉に思わず、本音が出てしまって。顔が一気に赤くなった荒北君が可愛くて、思わず手を伸ばせば、勢いよく叩き落とされる。
「嘘、ごめん。ずっと大好き!」
「あー、熱中症で頭やられてるから、聞こえネェ」
耳まで赤くなった荒北君は背中を向けて歩き出してしまうから。慌てて名前を呼びながら、後を追いかければ何だか高校一年生の頃を思い出す。
「荒北君、待って!」
手を伸ばして、腕を捕まえて。荒北君が大好きだと伝えれば、荒北君は顔を背けて「ウッセ!」と舌打ちをする。赤くなった耳を見上げて、振り払わない腕に緩みそうになる顔を必死に引き締めた。きっと、これから先もずっとこうやって、彼と一緒にいられたら幸せだろうと思う。荒北君は優しいから。口は悪いけれど、優しい人だから。
一緒に走ろうよ、とリーゼントだった頃の荒北君に声をかけた私のお願い。最後の体育祭で叶えてくれるとか、荒北君ちょっと優しすぎて、本当は今すぐ背中に抱きついて泣きたいけれど、多分全力で怒られるから今はもう少し我慢しようと思う。
箱根学園で出会った彼、荒北君。
私はこの先もずっと、彼の隣で胸を張っていられるように強い自分でありたい。