18 彼が見た空の色は

 ロードレースのインターハイは三日間。陸上競技は五日間。インターハイの間、荒北君から一度も連絡は来なくて、私からもしなかった。何か約束事をしたわけでもなければ、どちらかが何かを言ったわけでもない。
 でも、ごく自然にお互いがそれぞれの場所で前だけを向こうと思ったからの行動だと思う。今年の箱根学園陸上部の中で決勝まで残ることの出来た競技は一つもなく。表彰台の遠さを実感しながら、私に出来る事は雑用が主だったけれど、汗だくになりながら動き回って、仲間の勇姿を見守れば、どれだけ自分が今まで支えられていたのかを知った。

「……自転車競技部、準優勝だったんだな」
「うん。そうみたい」

 見に行けなかった自転車競技部のインターハイ。私の代わりにと見に行ってくれた、はるちゃんとなっちゃんがこまめにメッセージを送ってくれたから、結果を知る事は出来た。けれど、荒北君からは何の連絡も来てはいない。

「荒北は?」
「荒北君は最終日、リタイアだって聞いた」

 部長は顔を歪めて、そうか……と呟くと私の頭をポン、と叩く。閉会式も終わって、帰りのバスの中ではほとんどの部員が死んだように眠っていた。
 身体は疲れていたし、心もすり減っていて。左足首が疼くような感覚に襲われながら、鳴らないスマホを握りしめる。

「……荒北君」

 高速道路を走るバスの窓から外を見れば、ポツリ、ポツリと雨が降り出して。自転車競技部のインターハイが終わって二日は経っている。荒北君と最後にメッセージのやり取りをしたのは1週間前が最後だ。
 インハイに集中するから、しばらく連絡はしねェ、と言われていたから寂しいとかそういう感情とは少し違う。インターハイ、最終ステージ、荒北君は全力で走った。全力で仲間を引いた、そしてリタイアだった、という話はロードレースに興味のなかったはるちゃんからのメッセージからでも伝わるぐらいの熱量で。読んでいても涙が出そうになる程、苦しくなった。
 自転車競技部と陸上競技のインターハイの日程が被っているのは例年の事。荒北君は「オレはオレで走ンだよ。オメーはオメーのやるべき事やっとけ」なんて、鼻で笑いながら背中を叩いてくれた。
 見に行きたかった気持ちはあった。応援したい気持ちもあった。荒北靖友の最初で最後のインターハイをこの目に焼き付けたい思いはあったけれど。
 私の箱根学園で過ごした三年間、最後の夏にいるべき場所は陸上部で、その選択に後悔はない。ひたすら帰路に着くバスの中で揺られながら、はるちゃん達から送られてきた自転車競技部のインターハイについてのメッセージや写真を何度も読み返す。
 箱根学園に着く頃には夕方になっていて、後片付けやミーティングが終わったのは18時を過ぎていた。
 寮に用意されていた夕食を食べて、自室に戻ると一気に疲労が押し寄せてくる。お風呂に入らないと、とか荷物を片付けないと、とか。やるべき事はわかっているのに、頭の中は荒北君の事でいっぱいだった。
 荒北君に箱根学園に帰って来たことをメッセージで送ったのはもう1時間以上も前。未読のままのメッセージに落ち着かず、自室の中を動き回る。電話をかけるべきか、待つべきか。

「すいません、ちょっと軽く走って来ます」

 スマホをジャージのポケットに押し込んで、答えが出ないまま寮を飛び出した。小雨はまだ降っていたのに傘も持たずに飛び出してしまったのは馬鹿だと思う。何も考えずに男子寮へと向かいながら、視界が歪むのが雨なのか涙なのかは考えたくなかった。
 軽く走りながら、インターハイが終わってしまった事実を噛み締めて、歯を食いしばる。

「ミョウジ?どうした?」

 男子寮の敷地に入る直前。聞き慣れた声に顔を上げれば傘を差し出してくれたのは陸上部員の同級生。驚いた顔を見て、自分が何をしているのか考えさせられる。

「……荒北君に会いたくて」
「今から?」
「……うん」
「呼んできてやろうか?」
「……会いにいけないかな」

 一瞬の迷いが多分、顔に出た。少し困った顔をした陸上部員に連れられて裏口へと回る。

「バレたら停学になるから、絶対黙ってろよ。荒北の部屋、どこだっけなぁ」

 スマホで誰かに連絡したかと思えば、すぐに陸上部の数人が裏口へと現れて。大きな影に隠れように、男子寮へと足を踏み入れれば、緊張で心臓が痛い。

「荒北」

 何度目かのノックの後、ほどなくして扉が開く。

「アァ?何。ウッセーな」

 不機嫌そうな声と態度。頭を掻きながら、くたっとしたTシャツを着た荒北君が勢いよく扉を開ける。睨むような視線が私を捉えた瞬間、大きく見開かれた。

「ハァ!?」
「悪い。後、頼む」
「オメー何やってンの!?」

 陸上部員がごめん、と荒北君に手を合わせると私の背中を押して強引に扉を閉めた。荒北君の部屋に押し込められて、半ば荒北君に飛びつく形になれば、勢いよく引き剥がされて、頭突きが飛んでくる。
 額にゴツン、とぶつかった衝撃で一歩下がれば、荒北君が鬼のような形相で私を見ていた。

「ごめん、どうしても会いたくて」
「会いたくて、じゃねーヨ!オマエ、何考えてンの?男子寮入り込むとかバカすぎンだろ」

 だったら電話しろ、とかメッセージ送れ、とか怒鳴りながらタオルを貸してくれた荒北君に半ば引きずられるように室内へと入る。教科書は床に散乱しているし、着替えは脱いだものが散らばっていた。

「メッセージは送ったよ」
「……ナニ、落ち込ンでると思ったァ?」

 しばらく部屋の中を見渡していた荒北君はベッドの上の荷物を寄せると私を座らせる。荒北君自身は足で床の荷物を寄せながら、目の前に腰を下ろした。
 口調はいつも通りで、散乱した着替えの中からスマホを取り出すと、やっと私からのメッセージを見たらしい。
 さっきまで目を吊り上げて怒っていたのに、少し困ったように頬を掻くと真っ直ぐに視線が向けられる。

「ン、気付かなくてワリィ」

 片手を上げて、あんまり悪いなんて思っていない顔。飄々した顔を見ていたら、込み上げる想いが耐えられなくてボロボロと涙が溢れてくる。
 荒北君の左のこめかみには真新しい瘡蓋。インターハイ前にはなかったから、きっとインターハイの間に負った傷なんだろう。思わず指を伸ばして、そっと触れたくなる。

「オマエ、本当によくオレの前で泣くネ」

 イテェ、とか触ンな!とか怒られると思ったのに。荒北君は私の好きにしろとでも言うように、顔を動かさなかった。ただ、そっと優しく私の左足首に触れてくれる掌が優しくて、暖かくて、もっと近くにいきたいと思った。
 狭い床に座り直せば、荒北君は「せっかく座るトコ作ってやったのに」と文句を言ったけれど、ダメとは言わない。

「インターハイの話、聞きたくて」
「そンだけの為に、男子寮に来たわけ?」
「うん」
「見つかったら、停学になンのに?」
「……でも、どうしても会いたかった」

 荒北君は天井を見上げて、大きな溜息を吐く。頭をガリガリと掻きながら、スマホと睨み合うと諦めたように私の頭にゴツン、と額をぶつける。

「ン、30分だけナ」

 荒北君はあんまり顔を見られたくなかったのかもしれない。そのまま、ぎゅっと抱きしめられたから大きな背中をゆっくりとさすりながら目を閉じた。

「インハイ最終日の先頭」

 ハンドルをつい数日前まで握りしめていた大きな手。髪に絡みつく長い指に時々、ぎゅっと力が入って悔しさが滲む。荒北君の声と体温と、掌の熱を感じながら。見ることの叶わなかったインターハイを想像する。
 目を閉じれば歓声や、車輪の音さえ聞こえてくるような感覚。

「……ハンパなく気持ち良かった」

 思わず力いっぱい抱きしめた背中。ほんの少し震えていたのは、泣きながら抱きしめている私のせいにすれば良いと思う。
 荒北靖友が語るインターハイ。
箱根学園のプライドを背負って、最後まで引き続けた彼の背中を抱きしめたら、込み上げる想いで涙に濡れた視界の先に青い空が見えたような気がした。
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