17 彼と彼女の夏
走れなくなったスプリンターに競技場の中には居場所はないのかもしれない。けれど、内側を知っているからこそ、掛けられる言葉があるのかも知れないし、見えるものもあるのだと思う。「ナマエちゃん、ちょっと見てもらってもいいかな」
「ミョウジ先輩、お願いがあるんですけど」
フォームを見て欲しい、モチベーションの保ち方がわからない、と。今にも泣き出しそうな顔で声を掛けてくる友人や後輩の冷たい手をぎゅっと握る。大会前はいつだって皆、同じだ。
真夏の大会でも緊張と不安で体が思うように動かなくなるし、周りの誰もが自分よりも速くて、強くて、大きく見える。
「大丈夫だよ、いつも通りでいいの」
下を向いてしまったら、気持ちで負ける。だから、前を向く。前だけを見て、自分の走るべきコースを見る。イメージするのは自分が誰よりも速い、という勝つイメージ。誰にも先頭は譲らない、と思う気持ちだけを持って、試合に臨む事が一番良い。
「ほら、そのTシャツ似合ってるよ?」
緊張している友人の背中を叩く。箱根学園陸上部のジャージの下に着ているのは「最速王」Tシャツ。大会三日前に貸して欲しいと頼まれた、私の部活愛用Tシャツだった。
「でも、これは結構恥ずかしいですね」
「えー。それが良いって自分達で選んだのに」
一つ年下の高跳び選手の後輩が深呼吸をしてから、ジャージの上を脱げば「風になる」の文字を背中に背負っていた。
「これで会場を歩き回るとか、けっこうメンタルにくるわ。さっきトイレで二度見されたし」
「ミョウジ先輩、本当に去年のインハイ出た時も着てたんですよね?
このTシャツでインハイ会場ウロつくとか根性ありすぎでしょ」
「ミョウジは一年の時にも着てたぞ」
「一年の時の写真、オレ知ってる。爆速王だったやつ」
箱根学園のジャージに囲まれて。軽口を叩き合いながらも、みんなの背中を順番に叩いていく。弱い気持ちを追い出すみたいに、他の人から力をもらうのは部活の伝統になっていた。
去年も一昨年も、たくさん背中を叩いて貰った。痛いぐらい叩かれて、緊張で震えていたら先輩が、ぎゅっと抱きしめてくれた。そうやって送り出されたフィールドで深呼吸すると、不思議と心が落ち着いた事は覚えている。地区大会も、県大会も、インターハイも。いつだって、そうやって、たくさんの手に支えて貰っていたと思う。
「大丈夫。みんな速くて強い。ちゃんと見てたから知ってるよ」
震える子の背中は抱きしめて。伸ばされた手は強く握り返して。拳を出されれば、拳で応える。それが精一杯、私に出来る事だった。
「箱根学園の意地、ここで見てる。目に焼き付けるから」
「しょうがねぇ、箱根学園陸上部の名前、売ってくる」
「そうそう。記録残さないと変なTシャツの事しか言われなくなるよ」
いつまでもTシャツのままではいられないから、みんなもう少ししたら脱ぐのだけれど。私のTシャツがインターハイ会場でみんなのリラックスできるネタになっているのなら、悪くない。
「私達も行こう」
見学者はフィールドの外へ。ベンチからみんなの荷物番をしながら見る、今年のインターハイは選手ではないけれど。
「ミョウジ」
不意に名前を呼ばれて振り返れば、選手のみんながとても穏やかに笑っていた。
「……一緒にインハイ来てくれてありがとう」
一度は逃げ出して、背中を向けた陸上競技。今でも走りたくないかと問われれば、その答えは一つしかない。
「うん。みんなのおかげでここに来れた。ありがとう」
高校最後の夏。共に走る事は出来なくても、同じ景色を見ることが出来た事実が泣きたいぐらい嬉しい。
「録画は私に任せて」
「……手ブレ王子ミョウジには荷が重いから、そこは他のヤツに頼むよ」
軽口を叩く部長の背中を思いっきり叩いて送り出す。私の分まで走る、とは誰も言わない。私が走ってきた100メートルには箱根学園からは誰も出場しない。
違う学校のライバルからは出場しない事を驚かれたし、怪我のことを知っている人には同情の目を向けられた。走れないのに、よくここに居られるね、なんて心無い言葉も耳にした。けれど、不思議と悔しい思いよりも別の感情が心の大半を占めていたから、つらくはなかった。
「どうしよう。めちゃくちゃ緊張してきたんですけど。でも、選手のみんなはもっと緊張してますよね」
タイムテーブルを確認しながら、録画の用意や荷物をまとめる手が震えているのは後輩の二年生。惜しくも県大会で止まった彼女は私と同じスプリンター。脚質が似ていて、ここぞという本番に弱い所もなんだか他人事とは思えない。
「そうだね。でも、せっかくここまで来たなら楽しまないと勿体無いと思う」
「……来年、私もインハイ走りたいです」
「うん。私も見たい」
頑張れとは言えない。頑張っている人に、頑張れという言葉は重い足枷になるのを知っているから。
「記録伸ばして、メンタル整えて……。あとは何すればいいいですかね」
後少し。コンマ、何秒で明暗が分かれるスプリントの世界。ほんの少しの後悔が数字になって、突きつけられる現実。震える後輩の手を握って、言葉にならない想いを託す。来年、彼女にとって最後のインターハイ。絶対に走って欲しいという思いは、握った手から伝わればいい。
「自分を信じること、かな」
ぎゅっと握った指先は震えていて。けれど、競技場の中にいる部員を見つめる目には力があった。まだ、一年ある。まだ、間に合う。だから、諦めずに頑張れ、という言葉に出来ない思いを込めて。
「後は、絶対に怪我をしないように」
もう一度強く握った手。繋ぎ直された手が、今度はもっと強い力で握り返してくれる。
「……もしも来年、私がインターハイに出られたら、その時はミョウジ先輩、応援に来てくれますか」
「もちろん。約束するよ」
託す、なんて言葉はきっと重荷になるから絶対に言葉にはしない。誰かの為に走るよりも、自分の為に走る事を一番に考えろ、と教えてくれたのは去年卒業した先輩だった。
競技場の空気が段々と張り詰めていくのを肌で感じながら、乾いた空気に瞬きをする。
……荒北君も今頃、同じ空を見ているんだろうか。
「そういえば、自転車競技部も今日がインターハイですね。ミョウジ先輩、彼氏さんにもTシャツ渡してます?」
「え、なんでそんな話知ってるの?」
「うちのクラスの友達が東堂さんのファンで。自転車競技部のインハイ見に行ってるんですけど、さっき写真が送られてきて」
荷物の中からスマホを探した後輩が画面を向けてくれる。覗き込めば、不機嫌そうな顔で東堂君と並んでいる荒北君がそこにいた。ジャージの下に着ているTシャツに大きく書かれた「唯我独走」の四文字。
少し前に「これ、めちゃくちゃ荒北君っぽい」と部屋着にでも使って貰えればと渡したら眉を吊り上げて「ダセェ!意味わかンねェ!」と怒って頭突きをしたくせに。
「……着ないと思ってた」
「でも次の写真はもう着てなかったです」
後輩のスマホに送られた何枚かの自転車競技部の写真。時々、見切れている荒北君のジャージを見て思わず頬が緩む。荒北君もインターハイを走るんだ、と改めて実感すれば泣きたくなった。
「ちなみに友人はミョウジファンクラブの一員でもあるんですけど、ミョウジ先輩の写真を送ってもいいですか?」
「荒北君の写真を撮ってくれるならいいよ、って言っといて」
自転車を始めて、倒れるまでローラーを回していた荒北君。素人にインハイは無理だと言われていた一年の頃から、ひたむきにペダルを回す彼に密かに憧れた。前を向く強さも、意志の強さも、自分には足りないものだった。けれど、ひたすらに目標に向かってがむしゃらにペダルを回す荒北君を見ていると、負けていられないし、負けたくないと思った。
スマホの中でそっぽを向く荒北君は、今何を考えているのだろうと彼に思いを馳せながら。ゆっくりと瞬きをして、競技場を見つめ直せば、思う事は一つしかない。
荒北君の頭の中にあるのは、インターハイを勝つことだけだ。自分を信じて、仲間を信じて、荒北君はペダルを回すんだと思った。太陽に灼かれながら、チェレステカラーのロードバイクが風を切って駆け抜けていく姿を思い描くと心の中は熱くなる。
「よし、私達も見届けよう」
高校最後のインターハイ。私の夏は思い描いた未来とは違ったけれど、仲間が走る姿をこの目に焼き付けて、精一杯走りきった三年間だと胸を張ってもいいだろうか。