01 記憶の中の彼女

「なぁ、靖友。お前のクラスのミョウジって、まだ学校休んでるのか?」
「ミョウジァ?1回も見てねぇよ」

 四月も終わりを迎える頃。隣でローラーを回していた新開が不意に口にしたのは教室の窓際最後尾という羨ましい席の女子、ミョウジナマエの名だった。進級してから一度も顔を見ていない女。クラスの違う新開から急に名前が出た事に少し驚く。

「陸上部のスプリンターだろ?アイツ、一年の時に同じクラスだったけど足がクソ速い女だよナァ。三年になってから、1回も来てねェよ」
「そう。陸上部のミョウジ。そっか、まだ休んでるのか」

 視線を伏せて、小さく溜息をつけばそれだけで絵になる隣の男を睨み、最後まで喋れよとイラつく。そっか、ってなんだ。まだって、なんだよ。

「アイツ、なんで学校来ねーの」

 思わせぶりな新開の言葉に釣られるように、この一ヶ月密かに気になっていた疑問を口にした。クラスの奴らもざわついているが担任は家庭の事情以外は口にしないし、ミョウジと仲が良かった奴らも一同に口を閉ざしていて、友達と呼べる関係にはないオレが知る由もなかった。

「……いや、休んでるって聞いたから、まだ来てないのかなと思って聞いただけなんだ」

 モテる新開が気にかける女。何、どんな繋がりだよと茶化す雰囲気ではなく、あまりに真面目な顔をしていたからそれ以上は深追いもできず。微妙に重たい嫌な空気になった所で福チャンが練習メニューの変更を告げたのは幸いだった。オレはそれ以上、ミョウジの事を聞くに聞けなかったし、視線を伏せた新開は口を開かなかった。
 屋外に出てロードレーサーに跨り、無言でペダルを踏みこむ。肌に触れる風が心地良くて、澄んだ空のニオイが気分を高揚させる。坂を下って、追い風を受けて、更に加速した瞬間。不意に脳裏をよぎったのは、グラウンドを走るミョウジの姿だった。

『荒北君、陸上部入らない?』

 入学してすぐの四月の記憶。耳鳴りのような風の音と青い空気を吸い込んだ瞬間、映像のように脳裏に蘇る記憶。忘れたいほどくだらない意地に凝り固まっていた高校一年の入学当初。あの頃は自分でも荒れていた自覚はあるし、目に映る全てが腹立たしくて何もかもが気に食わなかった。目があうと大体のやつは逸らしたし、女子に至っては関わりたくないとばかりに避けられていた頃。

『荒北君』

 課題は出さねぇ、ホームルームはサボる。授業だって、飽きたら教室を出ていく。そんな事を繰り返してクラスでも浮きまくっていたオレと目があっても逸らすことも、逃げることもせずに話しかけてくる女は、ミョウジナマエだけだった。
 入学当初、同じクラスにいたミョウジは中学の陸上で100メートル、200メートルの全国大会に出場したらしい女、というのがオレの認識。一番印象に残っているのは、寮への帰り道で体育倉庫前に置かれていたハードルが目障りで蹴飛ばした時。倉庫から出てきたミョウジが眉間に皺を寄せてオレを睨んだ事は今でも覚えている。

『荒北君が蹴ったの?』
『ウッセ』

 吐き捨てるように言えば、あいつは黙ったままハードルを起こすとオレの目の前に立ってまっすぐな目をして尋ねた。何に、そんなに怒っているの、と。とても静かな声で、人の傷なんて知りもしないでストレートぶん投げてくるような女。結局、その後もオレにビビらない唯一の女子という不名誉のせいで、クラスで何かある度、オレに声をかけるのはミョウジの役割になっていた。
 怒鳴り返しても、半ば脅すような声をあげても、怯えた顔を見せないヤツ。あまりにも鬱陶しくて走って逃げれば後ろから追いかけてきて、どこかキラキラした目で俺を捕まえた後に笑った事もある。「荒北君、足早いね。陸上部入ればいいのに。一緒に走ろう?」なんて、リーゼントで睨みつけていたオレを勧誘してきた時はただのバカだと思った。
 福チャンと出会って原付からロードバイクに乗り換えた後も、髪を切ったオレに「短い髪の方が似合うね」とか平然と言ってきた。二年はクラスが離れていたから疎遠だったが、ミョウジナマエの名前を聞くと「あの頃」のオレをどうしても思い出す。三年になって貼り出されたクラス名簿の中にミョウジの名前を見つけた時、複雑な心境になりながらもあの頃置き去りにしてきた何かが見つけられるような気がしていた。

「オイ、一年。へばってんじゃねーヨ!」

 登りに入ると前方を走っていた一年集団のペースが明らかに鈍ったのを見て檄を飛ばす。遥か先を登っていく真波の背中を視界の端に捉えながら、やっぱ頭ひとつどころか、段違いに抜き出ていると思う。不思議チャンな所がなければ、もっといい。

「ひっ、荒北さん!いつの間に……」
「アァ?てめーらがタラタラ走ってっから追いついちまったんだヨ!」
「すいません……なんか、ちょっと頭がクラクラして」

 一年集団の最後尾を走っていたやつの顔を見れば真っ青を通り越して土気色。ヤベェと思った時には、そいつはオレとは反対側へ倒れ込んでいて思わずジャージの背中を掴む。

「バァカ!振り返んな!」

 そのまま引き起こせば並走できたはずなのに、前を走っていた他の一年が驚いて振り返ったことで一年同士のタイヤが接触する。派手な音を立てて接触した三台に巻き込まれて、一瞬青い空が見えた。

『荒北君』

 青い空を仰いだ瞬間、落車の音に混じって脳裏をよぎったミョウジの声。聞こえるはずのない声が脳裏に響いて、自分が考えていた以上にオレはミョウジの事を考えている事実に驚いた。

「大丈夫ですか!?荒北さん!すみません!」
「……大丈夫じゃネーヨ」

 浮かんできたミョウジの顔を振り払うように頭を振りながら見当違いの返事をすれば、先に転んだ一年が悲鳴をあげて、大騒ぎをしていた。顔色が悪かった一年はひっくり返ったまま一言も口を聞かず、ぼんやりとした顔をしていてどうやら熱中症になりかかっているらしい。

「オイ、誰か三年と顧問呼んで来い」

 反応の乏しい一年のヘルメットを外して、ボトルに入ったスポーツドリンクを飲ませれば左手首がズキリと痛む。プラプラと動かせば可動域に問題はないので、軽く捻った程度だろう。

「ったく……めんどくせーな」

 三年になって一度も学校に顔を出さないミョウジも。自分の限界わかってねぇ一年も。考えなしに振り返って接触事故起こす一年も。それ以上に考え事をして、落車に巻き込まれた自分も、すげぇ面倒でどうしようもねえなと思った。
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