小説 | ナノ

16 彼と彼女の時間

 陸上部に復帰、というよりも出戻りをさせてもらってからは目まぐるしく日々が過ぎていく。タイム計測、記録管理。やるべき事はたくさんあって、いざ部活へ戻れば感傷に浸る暇なんてなかった。
 部活に復帰した事を伝えると、はるちゃんとなっちゃんは「また相談してくれなかった!」と半分呆れたみたいに怒られたけれど、背中を押して応援してくれる。

「優花ちゃんがやりたい事やるのが1番だから」
「日焼けは注意してよ」

 新しい日焼け止めを復帰祝いなんて言いながら、制服のポケットに押し込んでくれた二人は今日はお弁当は別ね、なんて言いながら手を振って廊下へと行ってしまった。
 二人を見送った後、私も席を立つ。向かうのは荒北君の席。机に突っ伏したままの頭は微動だにしなくて、少し顔を近づければ微かな寝息が聞こえた。
 陸上部に復帰した事を話した時も「根性あンね」と笑っていたし、明確に付き合おうと言われたわけではないけれど、もうフリじゃねぇけどイイの、と念を押されたのだから俗に言う彼氏と彼女なわけで。昨日の夜、久しぶりに一緒にお昼を食べようと誘ったら了承してもらえたし、ここは起こしても大丈夫だろう。

「荒北君」

 疲れているんだろうなぁと思いながらも、遠慮がちに声をかける。荒北君のことだから、このまま寝かせておいてお昼ご飯を食べ損ねる方が怒るような気がした。軽く肩を揺すれば、ゆっくり顔が上がる。半分目をトロンとさせた見たことのない荒北君の表情に、思わず「可愛い」と無意識に声が出てしまった。

「……ア?」
「荒北君、お昼そろそろ食べに行こう」
「相澤、今なんか言ったァ?」
「何も言ってないよ」

 可愛いなんて言ったら絶対頭突きをされる。何度か味わったことのある感覚に、無意識に一歩下がった。寝ぼけた柔らかい目元は一瞬で、いつもの荒北君の表情に戻ってしまって、少し残念だった。
 顎が外れそうなほど大きな欠伸をする荒北君と一緒に廊下に出れば、久しぶりに一緒に食べるお昼が嬉しくて仕方がない。

「購買のパンでイイ?」
「うん。いいよ」

 メロンパンとチョコクロワッサン、それからアイスティー。ついでにヨーグルトを買えば「またソレか」と手元のメロンパンを見て呆れた声が聞こえた。
 空調が効いているから学食でも良かったと思うけれど、荒北君が向かったのは屋上で。曇り空だといっても、それなりにじんわりと暑い。
 建物の影に隠れるように座れば、吹き抜けていく風が心地良かった。

「腹減ったァ」

 言うが早いか、荒北君は焼きそばパンの袋を開けて大きな口でガブリ、と齧る。ソースの香りにつられて焼きそばパンをつい凝視してしまった。

「物欲しそうな顔してるじゃナァイ」
「別にそんなつもりじゃ……!」
「一口だけな」

 慌ててメロンパンに齧りつこうとすれば、目の前に差し出されたのは焼きそばパン。思わずつられて齧り付けば、焼きそばパンを咀嚼する間に、私の手を掴んだ荒北君がメロンパンに齧り付いていた。

「ちょっ、荒北君!食べすぎ!」
「アァ?全部は食ってねェ」

 私のメロンパンは荒北君が立て続けに噛みついたから、半分近くは失われていて可哀想なことになっていた。

「久しぶりに食ったら美味かった」
「私のメロンパン……」
「しょうがねぇナ。相澤チャンは食い意地張ってるもんナァ?」

 荒北君は普段呼んだこともないチャン付けで、煽るような口調で焼きそばパンを食べ切ると、面倒くさそうにクリームパンを千切ると私の手に押し付けた。でも、めちゃくちゃ小さい。しかもクリームが入っていない。

「クリーム入ってない」

 わざとだ。ニヤッと笑った荒北君が見せつけるみたいにクリームパンを食べる。なんだか悔しいので、荒北君の真似をして腕を掴んでクリームパンを引き寄せようとしたけれど、全く動かなくて驚いた。
 細身だけど、筋肉質な腕。ロードレースは腕の力も必要なのだと思った瞬間、逆に腕を引かれた。勢いあまって、荒北君の胸に抱きついてしまって、慌てて離れようとしたけれど、ぎゅっと片腕に抱きしめられる。
 乾いた風も、汗の匂いも。後頭部を抱えてくれる片手も、ドキドキと高鳴る鼓動も、短いお昼休みで味わうには唐突すぎて頭の中が混乱する。
 階段を駆け上がる足音に、慌てて体を離そうと思ったのに、頭が動かない。鈍い音を立てて開いた屋上の扉に、びくりと肩を振るわせれば頭上で荒北君が声を殺して笑っていた。

「相澤先輩!?」
「ごめんなさい!お邪魔しました!」

 聞こえたのは小さな悲鳴。聞き覚えがある声ではなかったけれど、名前を呼ばれたから、私の事を認知していた相手だったんだろう。見られた。恥ずかしい。無理。

「……荒北君のバカ!」
「真っ赤な顔で言われてもナァ?」

 やっと離してもらえたと思ったら、荒北君は涼しい顔。クリームパンはとっくに無くなっていて、ペプシを美味しそうに飲んでいた。

「急にからかうのやめて」

 普通の彼氏とか彼女って、どうやって過ごしているんだろうと思いながら、アイスティーに口をつける。火照った頬に冷たいペットボトルを押しつければ、心地良い。どこか意地悪な顔で笑った荒北君は、蒸しパンをまた少しちぎると分けてくれた。

「相澤見てると飽きねえわ」

 言葉も言い方も、鼻で笑っているのに。優しい目をするから、本当にずるい。受け取った蒸しパンを食べると、荒北君が何か言いたげにこっちを見る。え、食べちゃダメだったんだろうか。

「……荒北君?」
「陸上部のヤツに頭下げて部活に戻った話聞いて、正直驚いた。オレならやらネェ」

 右手をゆっくりと開いたり、閉じたり。荒北君はどこか懐かしむように自分の右手を見て、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「グラウンドで1人で石コロ拾ってる相澤見て、バカだなって思った。自分が走れなくなった場所だろ、って思った」

 バカ、と言う単語とは真逆に優しい声。思わず、お昼ご飯を食べることすら忘れて、荒北君の言葉を聞いてしまう。

「陸上部のヤツらに、礼を言われた。オマエを説得してくれてありがとうって。オレはなんもしてネェのにナ」

 今、言葉を遮ったら、きっと二度とは話してくれないような気がする荒北君の気持ち。何もしてない、なんて事はないのに。ずっと、怪我をしてから辛い時、背中を貸してくれたのも荒北君だったのに。

「実際なんもしてネェ。勝手に泣いて、落ち込んで、勝手に立ち直って、自分でケリつけてくるオマエにオレがしてやれた事があったなんて思ってネェけど」

 今、自分がどれだけ優しい顔をしているか、荒北君は知っているんだろうか。誰か、この顔を見た事はあるんだろうか。

「もっとワガママ言えヨ、たまには頼れ。ま、あんまり期待されても困るケドォ」
「……彼氏だから?」
「そうダヨ」
 
 なんで、さっき抱きしめた時に言ってくれないんだろう。どうして、蒸しパン食べながら、面倒くさそうに喋るんだろう。気がついたら、いつの間にか私のチョコクロワッサン半分千切って勝手に食べているのは何なんだろう。

「荒北君だって、じゃあそうしてよ。ワガママ言って欲しいし、頼ってよ」

 荒北君にそれ以上奪われないように、チョコクロワッサンを握りしめて精一杯言い返す。中に入った板チョコがぱきりと割れた感覚がした。一瞬、チョコクロワッサンに視線を落とした瞬間に荒北君から目を逸らしたのがいけなかったのかもしれない。
 気がついた時には、荒北君の顔が目の前に来ていて、瞬きする間もなく、唇が触れた。ほんの一瞬、重なった唇。チョコレートの香りと、柔らかい、少しカサついた唇。

「…………荒北君!?」
「ン、ただのワガママ」

 ぺろっと唇を舐めて、何事もなく食べ始めるのは本当にずるい。触れた唇の感覚に心臓がバクバクと跳ねて全力のスプリントの後みたいな錯覚を覚える。

「まだ、好きすら言われてないのに……!」
「ア?好きに決まってんだろ」

 好きじゃねーのにするか、ボケナスと暴言をぶつけられても嬉しいとか、悔しいのに嬉しい。

「もう一回、ちゃんと言って」
「ボケナス」
「そっちじゃない!」

 真っ赤になりながら、荒北君の胸倉を思わず掴んで揺すってしまったけれど。体幹のしっかりしている荒北君は少しもブレたりしない。

「もう一回、ちゃんとしてってコト?」
「そんな事言って……」

 ない、と言いかけた唇にもう一度重なった唇。さっきよりもずっと長い時間をかけたキスに頭の中が真っ白になる。なぜかこんな時に頭の中に野獣荒北、なんて言葉がよぎったりするから、もう自分の頭の中はパニック状態だ。
 意地悪な言葉より、優しい唇が。頬にかかった髪をかき上げてくれる優しい指先が。
 オマエのことが好きだ、と雄弁に語っているような気持ちになって、全部許してしまいたくなるから、恐ろしい。

「……荒北君が好きだよ」
「知ってる」
「荒北君は?」
「さっき、言ったァ」

 もう言わねェ、と呟く唇から視線を逸らしてアイスティーに口をつける。泣きたい時に背中を貸してくれて、人の視線から逃げたかった時に風除けになってくれた荒北君。強い眼差しで、前を向いて、泣き言なんて言わない彼の強さに勇気をもらった。

「私、荒北君には負けないから」
「ア?どういう意味?」
「絶対、私の方が荒北君のこと好きだと思う」

 好きな気持ちも、支えたい気持ちも、もしかしたら同じなのかもしれないと思ったらとても幸せだったけれど。それこそ片思いの時間を考えたら、そこだけは譲りたくない、なんて思ってしまった。

「ハァ?かっこいい相澤も、情けない相澤も、全部まとめて好きだって、こっちは言ってんだケドォ?」

 負けず嫌いな荒北君。半分、煽るような言い方をしたくせに、不意に我に返ったのか、溜息をついて空を仰いだ。

「……今の聞かなかったコトにしといて」
「やだ、無理。一生忘れない」

 空を仰ぐ荒北君の表情は見えなかったし、見たら怒られそうだから、赤くなった耳だけをそっと目に焼き付けて、私も彼と同じ空を仰いだ。
 高校最後の夏。もう、何も後悔することがないように、精一杯私も頑張るから、荒北君に恥じない姿でいたいと思う。

 
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