15 彼女の覚悟
付き合っているフリ、じゃなくなってからの方が荒北君と過ごす時間は短くなった。夏が近づけば、部活の練習や話し合いでどんどん忙しくなる。寮には寝に帰っているぐらいだと思うから、ほとんどメッセージのやりとりもしていない。
優花と名前を呼ばれたのも一度だけ。けれど寂しい気持ちは少しもなくて、不意に目があった瞬間、一瞬目を細める荒北君を見るのが嬉しかった。
「……私も頑張らなきゃ」
荒北君の背中を見ていると、このままじゃいけないって思う。弱い自分のままで終わっていいのか、と現実を見せてくれる。グラウンドで1人、過ごす時間を重ねる度に自分の弱さを自覚する。
この時期、運動部がどれだけ忙しいかわかっていた。邪魔になりたくないし、気を遣われるのも嫌だった。けれど、結局の所、走れない自分の姿を一番見たくないのは自分だった。
陸上部にはマネージャーはいない。だから、雑用は部員で持ち回りでやる。1年目も2年目もインターハイに出たから、練習が主だったし私は散々周りに支えてもらっていたと思う。
退部届は出した。だから、もう陸上部じゃない。引き止めてもらったのを断ったのも自分だ。この期に及んで手伝いたいなんて、自分勝手な我儘だ。
けれど、寮の中でも共有スペースで疲れきって寝ている陸上部の友達や、後輩を見ていたら何か出来ることはないだろうか、と考えてしまった。
「ねぇ、ちょっと話たい事があるんだけど」
陸上部の部長がいる事を確認して、昼休みに隣の教室に声をかける。いきなり部室へ顔を出す勇気はなかった。眠たそうな顔をしていた部長は一瞬驚いた顔をして、席を立った。中距離の選手な彼は私よりもずっと背が高くて、廊下へと出てきてくれたけれど、見下ろされると威圧感がある。
「相澤、なに。どうした?」
「いや、あの。疲れてる時にごめん」
三年間一緒に走ってきた仲間だった。部長になった後も色々と苦労していた事を思えば、この期に及んで迷惑をかけることが申し訳ない。呼び出しておいて、どう口火を切れば良いかと言葉を詰まらせれば、陸上部部長と元陸上部の組み合わせに気がついた他の部員が何人か集まってきてしまった。
「優花ちゃん?」
五人程集まった所で、気がつけば周りは囲まれていて。向けられた視線に緊張感から生唾を飲み込む。拳をぎゅっと握って、その場で頭を下げたのは、正面から顔を見る勇気がなかっただけなのかもしれない。
「……色々と身勝手な事して、ごめん。もう部員じゃないから今更だと思うけど。あの、雑用とかでいい。何かみんなの手伝い、させてもらえないかな」
昼休みの廊下は賑やかなのに。まるで私の周りだけは音がないみたいに静かで、下げた頭があげられない。怒っているのか、呆れているのか。みんなの足元をぼんやりと見ながら、誰も何も言わない空間で、もう一度声を絞り出すしかできなかった。
「少しでも手伝える事があるなら、やらせて欲しい」
床に向かって声を張れば、視界に入る足がいつのまにか増えていて。もうどのタイミングで下げた頭と顔を挙げれば良いのかわからなくなる。
なじられる覚悟も、怒鳴られる覚悟もしてきた。けれど、実際に沈黙を前にしたら息が苦しくてたまらない。
不意に、誰かが背中を優しく叩く。それをきっかけに四方八方から手が伸びてきて、頭を撫ぜる手もあれば肩を叩く手。全然痛くない加減でポカポカとあちこちを叩かれて、掌から伝わる優しさに体から力が抜けていく。顔は無意識に上げていて、気がついた時には何人かの友達に抱きつかれていた。
「お前さ、もっとオレらの事を頼れよ」
呆れたみたいに笑ったのは部長で。強面の仏頂面が破顔するのを見て、思わず泣きたい気持ちになる。
「今から部室、ちょっと行く時間ある?」
部長の投げかけに反応する前に、半ば強引に友人達に腕を取られて歩き出していた。
「優花ちゃん、まだ走ったりしない方がいいよね」
「あ、うん。歩くのは大丈夫だけど走るのは……え!?」
「ごめん、相澤」
三年の教室から部室棟は遠いな、なんて思った瞬間に浮き上がった身体。陸上部の中でも一番体格の良い同級生におもむろに担ぎ上げられて、驚いた。190センチは越えているはずの同級生の肩に担ぎ上げられて、視界が一気に広がれば、周りからの視線に晒される。
そこで、初めて気がついた。陸上部のみんなが笑っていた事に。中には泣きそうな顔をしている友人もいたし、補習の時に厳しい言葉を向けてきた男子は真っ赤な目をしていた。
「急がないとやべぇだろ」
「相澤、こういう大事な話は昼休みじゃなくて放課後に来いよ」
「優花ちゃんが間が悪いなんて、今に始まった事じゃないでしょ」
誰かが言い出したわけでもなく、みんな走り出していて。肩に担ぎ上げられたまま揺らされれば、お昼ご飯のおにぎりがあまり喉を通らなくて良かったと思った。
階段を担がれたまま降りるのが怖くて、思わずしがみつけば誰かが「相澤ファンに殺されねぇ?」なんて、笑った。
「相澤先輩!?」
普段よりもずっと高い視線から見る景色は不思議で。売店の前を陸上部の集団が駆け抜ければ、二年生の陸上部員達が目を丸くしていた。部室へと向かう途中、一人、二人と人数が増えていくのを見て、人の優しさに泣きたくなる。
雪崩れ込むように部室に押し込まれて、やっと地上に降ろして貰えば頭はぐらぐらと揺れていた。
「なんで急に部室?」
ふらふらする体を両側から支えられながら、周りを見渡せば部員達が顔を見合わせていて。部長が急に去年のインターハイの写真を飾った額を外す。急に何をするのかと思えば、突然目の前で額を裏に向けられて驚いた。
「……え」
額の裏側。無造作にマスキングテープで貼り付けられていたのは私の退部届。それを引き剥がした部長は赤い目を擦りながら、退部届を私に返してくれた。
「退部届なんて、受領してねぇよ。オレは認めてない」
「おかえり、相澤」
口々に歓迎だったり、戻ってくるのが遅いとか、退部届を出した日と同じように部室は騒がしかったけれど。気を抜いたら、もう涙が溢れて止まらなくなりそうで、震える手で退部届を握りしめた。
「雑用、やっぱりやらねぇとか言うなよ」
「……言わないよ」
「一人でこそこそ、石拾いは禁止」
「一年生がさ、グラウンドに石が勝手に集まってるって不思議がってたのめちゃくちゃ笑ったよね」
ロッカールームに視線を向ければ、相澤の名前もそのまま残っていて。誰が何の仕事をするのか割り振られたホワイトボードの片隅にもちゃんと名前の札が残っていた。
「みんなで話し合って決めてたの。顧問の先生にも許可貰って、優花ちゃんの退部届は保留にしようって」
「みんな、待ってたんだ。お前が戻ってくるの」
じわじわと胸の奥に広がる暖かい感情に、堪えていたはずの涙がもう溢れて止まらなくなる。
「……ありがとう。ごめん、勝手に辞めようとして」
「でも私達も、逆の立場だったら優花ちゃんと同じように辞めようと思ったんじゃないかな。手伝いたいって思えなかったかもしれない」
帰ってきてくれてありがとう、と抱きしめてくれたのはリレーを一緒に走った友人達だった。
「相澤優花は箱根学園陸上部に必要なんだ」
走れなくなっても、選手じゃなくても。そこにいて、みんなを支えて、いるだけでも違うんだと部長は目を細めて言ってくれた。三年に上がってから泣いてばっかだなぁ、と自嘲気味に笑えば、ずっと苦楽を共にしてきた仲間達が一斉に頭を撫ぜてくれる。散々ボサボサにされた髪を手櫛で直せば、遠くで予鈴が聞こえた。
「オレら授業間に合わなくね?」
「え、みんなでサボる?」
「馬鹿、部活停止にされたら困るだろ」
「私、まだお昼食べてなかった!」
「……みんな、本当にありがとう」
慌てて部室から飛び出せば、空が高くて吸い込まれそうな青に胸の中のモヤモヤが晴れていくような気がした。
「ところで相澤。この後も担いで戻るつもりでいるけど、どうやって担いだら、オレは荒北に殺されないと思う?」
行きに運んでくれた男子が今更だけど、と笑うのを聞いて思わず顔が赤くなれば、やっぱ付き合ってるの本当何だ、と周りから揶揄われる。多分、荒北君は無反応なんじゃないかと思いながら、肩に担ぎ上げられるのは胃にしんどいので背負って貰った。
途中、自転車競技部のメンバーと鉢合わせて、荒北君が背負われている私を見上げて驚いた顔をしたけど。
「相澤、何運ばれてンの?」
「荒北、代わった方がいい?」
背負ってくれていた男子が気にして声を掛ければ、片眉を吊り上げて荒北君は鼻で笑う。
「ア!?いらねーわ!」
陸上部顔負けのスピードで走り抜けた背中を見送って、やっぱり速いなぁ、なんて呟いた。
「そういえば1年の時に相澤って荒北の事、陸上部に誘ってたよな」
「ほんと、あの頃の荒北に陸上部入ろうとか言ってんの見て、こいつ馬鹿なんじゃないかって思ってた」
「でも、高校から始めたロードバイクでインハイメンバーに選ばれる荒北君はすごいと思う」
走り去っていく荒北君の背中。部長がオレ達も負けてられねぇな、と声を張ればみんな静かに頷いた。
ちなみに、この後結局、三年生の陸上部全員が授業に遅れた事で放課後、職員室に呼び出された。けれど、みんなと一緒に並んでいた私を見て、担任も顧問も職員室で泣き出したから、何となくの雰囲気でお咎めはなく課題が増やされる事は免れたので、良かったと思う。